うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

世界クッキー 川上未映子 著


いろんな雑誌に載ったエッセイを集めた本。コントみたいにおもしろい話も。
「燃える顔、そして失われたお尻」は名作。姉妹の話。エレベーターのなかで誰にも見られていないと思ってやっていたことが…という話。
象の背中にのってみれば」は、「すべて真夜中の恋人たち」を読んだ人ならピンとくる話。
わたしも同じようなことを考えたまま中年になっているので、このような考えがぐるぐるする文章にホッとする。

(「境目が気になって」のはじまり)
 生きていれば気になることがそのつどつどにあるのだけれども、子どもの頃に感じていた「気になる部」がすっかり大人になってしまった私を最近またもやノックするので、落ち着かない。だって気になることってだいたいは「不思議だねえ」で回収するしかないような代物で、三十路を越えて単純に「あれも不思議! これも不思議!」なんて言ってたって「不思議ちゃん」ならぬ文字通り「不思議さん」であって誰しもが反応にお困りになるだろうし、でももう誰も困らせたくはないんだよ。

この感じが、すてきな文章を書かせるのじゃないかな、なんて思う。



(「終わりの不思議」のラスト)
暫定的な、仮定としての区切り・終わりを設定はできても、このひと続きの人生そのものの終わりを体験した人はこの世界のどこにもいない。その意味で「終わり」の概念はどこか不自然なものに感じるのじゃないかしら。
 けれども「終わり」をとりあえず演じてみることで、永遠に続くかのような人生にも「一回性」のきらめきとおそろしさが生まれる。言葉はいつでも「ある」と「ない」の確認の機能。

インド人のようなことをおっしゃる。



(「会いたいも、ただの言葉かしら」より)
 ワークショップは「なぜ今回参加されたのですか」という質問で始まったのだが、そのなかで「(わたしに)会ってみたかった」という答えがあって、こういうときに、作品と作家というものの関係について複雑な気持ちになってしまう。もちろんそれは、そう感じることに正誤があるとかそういったことではなく、問題は「会う」ということに、本や文章を読むだけでは得られない「善さげな何か」が確実にあるということで、その「善さげな何か」というものが、本や文章とは関係がなくはないということで、この「会いたい問題」「会ってみたかった問題」は、けっこうな比率で事あるごとにわたしの背骨をノックする。
 たとえば人が、死んでしまって今はいない作家に対して一読者が「あの作家だけには会ってみたかった」と言うときに、満たしたいものは本当のところなんであるのだろうか。

この複雑な気持ちには、小説「すべて真夜中の恋人たち」の中でもエピソードとして使われていた「タイの観光地で象に乗ってみる・乗っておきたい」という状況への素直さ、その素直さに対する恐怖に通じるものがある気がした。わたしも「満たしたいもののナマナマしさを見ていないから、食べたいものを話すように口に出せるのかな」と考えたりする。


落ち着いて考えをめぐらせると少しゾワッとしたり、不毛さを感じるのに考え続けることをやめられない。日常にはそういうことがたくさんあって、このエッセイは「だよね、考えちゃうよね」みたいな感じでホッとする。角田光代さんの旅エッセイを読んでいると「おお。よくその差別感情のカユいところを言語化してくださった」と思うことがあるのだけど、川上未映子さんのエッセイは「おもねる」という行為について思考をめぐらせるときに起こる微妙なカユさが言語化されていてドキッとする。サービス精神のモヤモヤ、みたいなもの。こういうエッセイの存在によって「こう考えるのは、わたしだけじゃないんだ」という気持ちになれるのは、やっぱりありがたい。


▼紙の本


Kindle

川上未映子さんのほかの本の感想はこちら