最新のエッセイを読んでここにも感想を書いたのだけど、読みながら内容になんともいえぬ窮屈さを感じて、昔の文章を読んでみました。
2003年から三年間綴られたブログが書籍化されたものです。
これがどうにも、自由すぎて面白い。なかでも『キャロルとナンシー』は名作で、号泣モノ。(『夏物語』という小説の屋内ぶどう狩りのシーンを想起させるお話)
そして以下は小説『黄色い家』の時代で、オープンに突っ込む感じが痛快です。
美輪明宏氏の髪がゴールドでなくってなんなであからさまな黄色にしてあるのかっていうと、あれって金運を上げることだけの、そう、風水的なアプローチであって、そう、金運を上げるおまじないだそうです。黄色と金色って金色のほうがご利益ありそうなものやけども、なんせ風水。黄色が強いのだそうだ。がっかりやよね。
(ラジオ最終回、みんなありがとう より)
うん、がっかりだ!(笑)
やっぱり今は、「こういう人に対して失礼だろ」と湧いてくる表現ツッコミ警察を内在させなければいけない世の中になり過ぎてしまったのだろう。
だけどわたしはこういう日常的な思いが読みたい。
気になっていたことに他人がツッコミを入れているのを見つけたときの喜びには、なんかデトックス効果があるのです。
「ぞっとする」ということを、ときどき「ぞっとしない」って書く人いるけどあれはなに、意味は同じなのかしら。
(冷蔵庫を買ってもらうのだ より)
これはわたしも思ったことがあります。
アガサ・クリスティの小説を読んだときに見て、イギリス英語にはこういう風に日本語訳したくなるような意地悪なニュアンスでもあるのかと思っていたら、映画『赤線地帯』の終盤で沢村貞子さんが同じ用法で口にしていて、「ぞっとしない」って言うんだ・・・と思ったことがありました。
昔は、さらっとは容認できないわとか、やってらんないわ、って感じで「ぞっとしない」と言っていたみたい。
このエッセイ集には火の要素も泥の要素も大量にあって
病院に足繁く通っていたとき
という一文から詩のような文体で書かれている『結ぼれ』は、精神がしんどい時期の話。自分自身へのツッコミの厳しさがうかがえます。
病院に来ると帰り道 自分が本当に情けないどうしようもない
なんの処置もない人間に思えてしまうのです
よく知らない人に話を聞いてもらうことのいやらしさ
そのくせ話し出すと止められなくなる都合のよさ
狭い部屋で開放されたと勘違いする自意識の
その お目出たさ
「その お目出たさ」、それな。
「知らないから話せる」って、年齢を重ねてわかってくる頃にはもう怒りをエネルギーにしない段階に突入しているところがあるから、若い頃はこうやって「狭い部屋で開放されたと勘違いする自意識のお目出たさ」に突っ込めるほうが謙虚じゃないだろうか。
占いやお告げやスピリチュアルな導きを借用するスタンスについて書かれた『退屈凌ぎ人生自慢 in 人生』は、小説『すべて真夜中の恋人たち』に登場する序盤の石川聖そのもので、わたしも大賛成の考え方。
不安はあるさ。そりゃそうさ。それが人生のデフォルトさ。
それでも自分のズルさを放置せずにできれば認めて生きていきたいのだ。という気概のようなものが随所に感じられて、なんかよかった。読みながら泣き笑いして、20代をやり直す感じがあった。
自分のなかで暴れて葛藤してみることの醍醐味が詰まったような文集で、読み応えありありでした。