ぶりっ子おばさん・少年おじさんみたいな、ひらがな多めの文章を嫌う時期があった。
話の中身を読むと意地悪な大人なのに、まるで子供に語りかけるような文体で煙に巻く雰囲気のつくり方がいやらしいと思っていた。
この本の高山さんの文章はひらがな多めではない。
素材の勢いを逃さないようにしつつ、息苦しくならないバランスで書かれている。
大人が本当に思っていることを語るときには、「ぶりっ子」や「少年」のような道具を使うとラクに書ける。だけど高山さんはそれを使わず、なにか過剰なものを発動させないように我慢しながら言葉を繰り出しているように見える。
わたしは先日、電子レンジもフードプロセッサーも登場しない高山さんのレシピとその味に魅せられたばかり。(今日も煮卵と豆乳プリンを仕込んだ)
そういう飛び道具に頼らない工夫の奥行きがエッセイの文章にも見られて驚いた。
喩えに食べ物が出てくるときのチョイスがおもしろい。
『女どうし』という、高山さんの娘さん(配偶者のかたの連れ子なので血の繋がりはないと書いてある)がお子さんを産むときの話がある。それを待っているときの夫婦の食事の話や、帰りに入ったお風呂やさんで見た各世代の女性の乳房について書かれている。
共同浴場で見る女の乳房の話といえば川上未映子さんだが、高山さんの表現には「甘食」が出てくる。カーブも先端の形も完璧な喩え。
『体育館のビー玉』には、双子で生まれたお兄さん、二つ違いのお姉さんらと育ってきた頃の話が出てくる。「溢れ出すと止まらなくなる悔しい気持ち」を回想して書かれている。
感情の種というのはこういうふうに発芽の仕組みを持っていて、大人になっても発芽をくりかえす。
文筆家で元シェフで料理家ってどんな人なんだろうと思っていたけれど、なんでも観察して料理すれば、どんな感情も誰かと一緒に食べられるものになる、そういうことを示すような強い素材がいくつもあった。
* * *
この本はWeb連載がまとめられたもので、内容は映画や音楽や本の紹介。なのにけっこうガツンとくる。
最初の作品は映画『誰も知らない』で、途中からモノが捨てられない人の話になる。
この話がすごいのはその対象が高山さんの夫の前妻であることで、身近なことに対する淡々とした視点が是枝監督のそれと重なっていく。
社会の目が神経質になる前に出版された本で、書かれているのはさらに昔の話。だから “その状況に追い込まれている母親の夫はなにをしていたんだ、擁護するのか!” という話にはならないし、たぶんこういう視点の文章はこれから書かれなくなっていく、あるいは書かれても炎上を懸念してカットされてしまう種類のもの。
冒頭から『誰も知らない』ではじまる不穏さと、この視点を持っていることを隠さない人間性と勇気に圧倒され、映画や本から得る栄養素と毒素のせめぎあいに心の味覚を刺激される。
少しダークな部分にハマってしまいそう。エッセイも人気らしいからと思って読んでみたのだけど、すでにわたしには食べ過ぎ注意な予感がしている。