ちょっとなにこの夢の競演、という本を見つけてしまいました。
ひろさちやさんの質問がとてもおもしろく水の向け方も巧妙なのだけど、流されない服部先生の学者っぽさがいい。完全に役割分担ができている。
だいたい思想や宗教に関する質問というのは、質問する側が「自分が見たい世界」に理論を引き寄せたがるケースがほとんど。それをひろさちやさんが完璧に演じ、お互いにわかったうえで「気持ちはわかるんだけど、はいとは言いきれません」と服部先生が続ける。
前に「天職って? svadharma と svakarma」というトピックでも少し書きましたが、ひろさちやさんの以下のようなスタンスは、団塊以降の人が少しインド思想を学ぶようになると、ハッとするところではないかと思う。
わたしたち現代日本社会は、職業選択の自由を認められたが故に、子は親を尊敬しなくなり、職業をそれによって得られる金銭メリットによってランク付けるという、思わざる弊害を作り出した。(「まえがき」より)
日本人は、努力すれば何でもできると考えています。だから、もし約束を破れば、その人の努力がたりなかったからだと、責めることになるんです。約束が果たせると、自分が努力したからだと、努力を誇ることになるわけです。(182ページ / 第5章 神の愛とバクティ より)
仏教とヒンドゥー教というのは、お互いに反目する宗教です。そこまではふたつの宗教は同じ態度なんですが、そのあとがまるで違ってきます。仏教はヒンドゥー教に対して否定的な態度を取りますが、ヒンドゥー教は仏教を取り込んでいくんですね。きっとヒンドゥー教のほうがしたたかなんでしょう。おとなの態度とでもいうんでしょうかね(笑)
(101ページ / 第3章 「一」なるもの より)
「二元論を超える」って口で言うのは簡単だけど、日々の生活の中でそれを忘れる瞬間をなくすというのは、すごくむずかしい。インド人だって、いつも苦しそう。なんなら日本人よりも苦しそう。でもこういう教えがあることをうらやましく思ったりもします。苦しさを抱えた上でのしたたかさって、賢いなぁと思うのです。
この本は最後に服部先生が「対談を終えて」と振り返っており、1966年からカルカッタで2年学んでいた頃のエピソードのなかにドゥルガー・プージャーを見た話があり、そこからこんなことが書かれています。
このプージャーの起源はよく分らない。ヴェーダの宗教は神に犠牲をささげる供儀の宗教で、プージャーはそれとは全く異質の宗教儀礼だから、先住民の慣習に由来するという説も立てられているが、有力な異説もある。
(中略)
ヒンドゥー教には、このプージャーの場合のように、その起源がはっきりしない要素が多い。ヨーガ、不殺生、牛の礼拝など、みなその例である。
この本では「これは土着文化かアーリヤー人によるものか」という疑問が何度も投げかけられるのだけど、服部先生は丁寧に断言を避けます。起源を書物から読もうと思っても、推測する時点で方向付けることになってしまう。そういう慎重さみたいなものの背景が少しだけ語られています。
基本的なことのQ&Aのなかで、こういうのありそうでなかった。というものを紹介します。
ひろ:(前略)「ヴェーダ」文献というのは、知識書と訳すことができますね。
服部:そうですね。
ひろ:ヨーロッパ的にいうとロゴスでしょうか?
服部:いや、ロゴスというと、万物を支配している法則・理法ですから、むしろ、「リタ(天則)」に相当すると思います。「ヴェーダ」の場合は、祭式に関する知識であって、宇宙の理法に関するような知識ではありませんね。
(28ページ 知識の書「ヴェーダ」より)
豊穣を願い祝う神道の儀式が多く残っている日本は、リタ(天則)と儀式の感覚がスッと入ってきているけど、たしかにこの質問のように分類したくなる人はなるかも。
ウパニシャッドのところも、まじめすぎておもしろい。
ひろ:「ウパニシャッド」は、奥義書と訳されていますね。
服部:はい。
ひろ:師匠から弟子へ、ひそかに授けられたものだといわれていますが。
服部:「ウパ・ニ・シャッド」という言葉が、「近くに坐る」という意味に取れますから、弟子が師匠の近くに坐って授けられる奥義を示したのが「ウパニシャッド」という解釈を取る方もあります。しかし、「ウパニシャッド」の中には、公開の討論会が開かれて神学・哲学的な討論がされる場面や、数人で専門知識を持ってた人のところへ教えを乞いに行ったり、バラモンが王族に教えを授けるといった場面があります。ですから、奥義を授けるという意味に解するのは適切ではありません。
師が弟子にネタを話してる設定にしては、完成度の高い物語が多いと思ってた! ここは、なんかヘンだなと思っていたところだったので、読んですっきり。
このあとのウパニシャッドの要約説明もすごい。
服部:説明を省いてかんたんにいえば、人間の機能 ── 視覚(眼)・聴覚(耳)とか思考力など ── や、祭式の要素 ── 祭具や供物など ── と、至高の存在 ── ブラフマン・アートマンなど ── との対応・一致を表明する簡潔な定句が「ウパニシャッド」です。
この流れのあとの、ひろ先生による確認的な質問がまたナイス。
ひろ:でも、「ウパニシャッド」自体には、「梵我一如」という言葉は出てこないんでしょう。
服部:ええ。ただ「われはブラフマンなり」「汝はそれなり」という言葉で、それを表現しているわけです。
(36ページ 「ウパニシャッド」・人間と宇宙の合一 より)
「われはブラフマンなり」「汝はそれなり」って言ってるのは誰なんだよ感がコーランとは違うおもしろさなのだけど、人間の機能と至高の存在との対応・一致を表明する簡潔な定句が「ウパニシャッド」という説明はすごい。
ひろ先生は仏教フィールドの人なので、この本は「献身」についてフォーカスしている箇所がおもしろいです。
ひろ:バクティという考え方は、ヒンドゥー教に古くからあったものなんでしょうか。
服部:いえ、ヴェーダの宗教には見られません。バクティという言葉がはじめて出てくるのは、紀元前三〜四世紀ごろに作られた「ウパニシャッド」です。
(129ページ キリスト教の愛・ヒンドゥー教の愛 より)
この本はまじめです。(佐保田先生の「バクティはギャンブルのことではありません。」を思い出しながら←名作!)
ここもすごくやさしい説明。
ひろ:バクティは人格に対する信愛であり、シュラッダーは教えに対する信なんですね。
服部:そうです。仏教の浄土教では、阿弥陀仏に対する信仰がバクティに似ていますが、用語としてはシュラッダーが使われています。阿弥陀仏を拝むことによって心が清らかになり、仏の救いを信じて疑わないことが信だとされています。ですから、神対人、人対人という人格的な関係での信愛とは違うものなんですね。
ただ、バクティという言葉が、まったく使われていないわけではなくて、大乗仏教の初期に創られた仏塔の碑文などには、仏陀の人格に対する崇拝の気持ちが、バクティという言葉で表現されています。
(141ページ 仏教にもバクティがある? より)
ひろさちやさんが絡むと、こういう仏教との相違を掘り下げられるところがおもしろい。
ひろ:バラモン教の初期の時代、つまり『リグ・ヴェーダ』を中心とする宗教で説かれていたのが、「カルマ・ヨーガ」、つまり「祭式の道(実行)」ということですよね。
服部:そうです。ただ、「カルマ・ヨーガ」という言葉は、『バガヴァッド・ギーター』以後、祭式だけではなく、各人にダルマとして定められた行為の実践を意味しますが。しかし、今は「祭式の道」としておきましょう。
(150ページ キー・ワードはバクティ より)
この本は「しかし、今は」とか、このへんのニュアンスが読みどころでもあります。
書物についての説明も、なにげに細かく織り込まれています。
ひろ:スートラとシャーストラは、どう違うんでしょう。
服部:スートラというのは、教義や学説の要綱を、暗唱できるように簡潔な文章にまとめたものです。仏教のお経もスートラで、長いものが多いですが、これは例外で、一般にスートラは必要最小限の語句だけをつらねたものです。暗号のようなものもあります。これに対してシャーストラは、要綱だけでなく、学説を詳しく論述した著作のことをいいます。
ひろ:スートラについての注釈書でしょうか。
服部:いえ。注釈書ではありませんね。独立した著作です。
(190ページ 「アルタ・シャーストラ」は実利の解説書 より)
このあとがおもしろいので、これはその前段として紹介しました。
ひろ:カーマやダルマについてはいかがでしょう。それぞれにスートラとシャスートラが残っているわけですが。
服部:ダルマの考察はヴェーダ補助学の一部をなすもので、ヴェーダ学派に所属する「ダルマ・スートラ」が現存しています。やがて、特定のヴェーダ学派に属さない、ダルマの専門家が現れるようになりますが、「ダルマ・シャスートラ」はそういう人たちによって作られたものです。カーマについては、『カーマ・スートラ』がありますが、これは性愛についての学術書で、シャスートラと呼んでもよいものです。どうして「スートラ」と称されるのか知りません。「カーマ・シャスートラ」としては、後代のものですが、『アナンガランガ』『ラティ・ラハスヤ』などが現代に伝えられています。
(192ページ 「アルタ・シャーストラ」は、実利の解説書 より)
カーマ・スートラの実用性たるや、ほんとすごいんですよね。どうしたこれおっさんが注釈しているとか信じられないのだが! という内容。女性はぜひ読んだほうがよいです。娼婦じゃなくても娼婦の章を。
この対談が夢の競演なのは、以下のような箇所で感じられます。
ひろ:涅槃という概念は、バラモン教にもあったものなんですか。
服部:いや、仏教に特有のものとされています。『バガヴァッド・ギーター』にも用いられていますが、多分仏教の影響でしょう。仏教が涅槃を目指したのに対して、バラモン教では、天界へ生まれ変わることが理想とされてきました。しかし、ウパニシャッド時代になると、輪廻の思想が形成されて、輪廻からの解脱が課題とされるようになりました。
(218ページ 「釈迦とバラモンの対話」より)
このへんの違いを丸呑みしたところが、西遊記のおもしろさでもあるんですよね。猿も豚も河童も天界から堕ちてきちゃったから。
そしてわたしは今回、ここがたいへん沁みました。
服部:『マハーバーラタ』は史実に基いたものですが、『ラーマーヤナ』は、純然たる逸話です。
ひろ:そうしますと、『マハーバーラタ』のほうは、日本の『古事記』のようなものですか。
服部:物語の中心は、紀元前十世紀ごろに北インドで起こった同族間の大戦争ですから、『古事記』というよりも、『平家物語』に近いと思います。
(41ページ インドの古典・二大叙事詩 より)
このあと別の話題になっていないので詳述はされないのですが、やはりあのギーターの同族間の争いの話を読むと「源平の合戦」を想起するよねと思うのです。自己正当化の葛藤プロセスを描くのに、これ以上の題材はないだろうな、と思う。日本の場合はそれが本当に行われたってのがすごいし、そんな世に生きていたらめちゃくちゃ祈るし納経もする。
わたしとしては、カーマ・スートラがスートラの域ではないことに言及されていて、たいへんスッキリしました。
服部先生はウパニシャッドから論証学まで訳し、守備範囲もヒンドゥーの教典が中心なので、この組み合わせはおもしろかった〜。ニヤニヤしながら読んでいる状況が変な気もするのですが、ニヤニヤしながら読みました。