うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

いまもデイリー150ページビューの頃と変わらぬ気持ちで書いている

わたしはだいたい毎日1つ、ここに文章を残しています。「書いて出す」という習慣は10年くらいになりました。はじめのころは「たまに」だったのが、だんだん「ほぼ毎日」のようになっていきました。過去の文章をたまにボチボチ消しているのですが、ストックは2600エントリーを超えてしまい、収拾がついていません。どうしましょう。


最近は、「これは発見!」と思って書き始めたら、途中で「あれ? なんか前にこんなこと書いたかも…」という気がして、自分のブログの中で検索したら過去の自分のほうがおもしろく書いていた、なんてこともあります。
そういうとき、



 ユーは、わたしか!



とつっこむのですが、ミーなんですよね。
こういうとき、意識は瞬間瞬間で転変しているのだと、しみじみ感じます。
どこで読んだのか聞いたのか忘れたのですが、



 過去と未来のことを思っている瞬間は、「いま」を殺している



という、たぶん言ったのはインド人であろう格言のようなものがあり、わたしはよくこのことを思うのです。
「座右」の「座」がどのアーサナなのかわからないのでピンとこないのですが、「座右の銘」というのに近いかもしれません。



ブログを書き続けることがむずかしいと感じる人がいるようですが、わたしにはその感覚がよくわかりません。
わたしは「ここでは、1日1個まで」と制限しています。書き出しジャンキーみたいになってしまうし、それがエスカレートすると「見て見て病」になるのがわかっているので、抑えています。雑な感情が抽象化していくのには時間が必要なので、ざっくり書いて寝かせてある文章がたくさんあります。


わたしはずっと、デイリー150ページビューの頃の感覚のままで書いています。10年前のページビューがだいたいそのくらいで、その頃「たくさんの人が見てくれるインターネット、すごい!」と思って、その後は数字が増えてもあまり気分が変わりません。ふだん友人と心のなかのことを話すときは1対1なので、それが150ってだけで「うわわ、すごく見られてる」と感じます。もともと壁新聞の感覚に近いイメージだったからかもしれません。ひとクラスぶんくらいの人数を超えるとリアルじゃなくなる。
イナバ物置に100人乗っている広告を見ても、肌感覚で認識しているのは前方にいる30人くらい。「30人を超えたら、いっぱい」ってなる。


心理的な抑制も促進も、この30人のイメージです。クラスにひとりは風紀委員的なマインドをふりかざす人がいたり、すべてを悪意に変換して受け取る人がいたり、おおげさな人がいたりしつつ、残りのほとんどはムードに任せる人たち。そのなかでひとり、仲良くなれる人がいたら、すごくうれしい。「おお、こんなところに気の合う人が」という喜びを大切に保存して、「こういう出会いのためには、それなりの母数が必要」と思えば、自然と書き続けることになります。
ブログを書き続けられない人は、自分のことを特別に恵まれた人間と思いたい気持ちが強すぎるんじゃないかな。
環境やプラットフォームがあるってだけで、恵まれてる。わたしの中ではずっと、15年くらい前の「インターネット、すごい!」の火種が静かに燃え続けています。





アクセスが伸びすぎないようにしていても、記事が増えればゆっくりとアクセスも増える。たいへんシンプルな原理です。(画像はここ9年のセッション数)
平等であることが、どれだけ画期的なことか。そこに気づくことが、運と知恵の境界を知ることなんだと思います。
そんな原理の中に身を置いている実感があると、繰り返し読んでくださる人がいることがたいへんありがたく感じます。
(今日も読んでくださり、ありがとうございます)