先日、銀座のヨガにおいでくださったかたが「毎日あんなにブログを書いているなんて、すごい」とおっしゃったので、「気合を入れて書いているわけではないので、すごくないです」と話しました。
2段階でお話しました。
1)人に見せなくても、書くことは感覚や記憶の物質化作業としておすすめ
2)書いて人に見せると、その過程で自分の虚栄心も認識できるので、さらにおすすめ
1)感覚や記憶を物質化すると捨てやすくなる
床の微細なホコリをクイックルワイパーでサササーっと取って目で見るのと同じように、目に見えるように物質化すると捨てやすくなります。
「どうでもいいこと、瑣末なことを思った自分」という瞬間を物質化しておくと、似た思考を繰り返すことに飽きるし、またやってる、という状態に気がつきます。
心に目印がつく感じと言ったらわかるかな。
2)人に見せると虚栄心も具現化される
ブログは不特定多数の人が見るところにアップするものですが、わたしは15年以上書いていて、若い頃の文章もそのままです。
あらゆるホルモンがドバドバ分泌されていた頃に書きはじめたので、思いの「量」が多い時期の激質が可視化されています。
意識している世間の狭さや認識の歪みもそのまま記録されていて、過去の自分の文章を読むと見識の狭いものばかりですが、それが当時の、そのときのわたしの虚栄心。
逆に、過去の自分を見て「この頃は謙虚だったな」と、現在の自分を反省することもあります。
虚栄心は年齢や経験とともに内部構成が変化していくもので、虚栄というとイメージが悪いけれど、「ラッピング」や「差し出し方」のようなもの。
わたしはいつも誰かに語りかけたくて書いているので、こういうことに面白みを感じる人と出会いたいな、という気持ちがないと、他人が読む場所で書く動機がありません。
わたしは自分の虚栄の部分を見て、自分はこれからこういう人に出会いたがってるんだな・・・という一面を発見します。
余談1:やってみてよかったと強く思ったことが何度もある
内面を文字にして出した上で起こる出会いは、格別です。
ブログをきっかけに認知されヨガクラスでお会いできたかたすべてに対してこの思いはありますが、特に強いエピソードとして、旧友との再会がありました。
10代の頃のわたしを知っている友人がヨガを始めていて、わたしを見つけて来てくれたことがありました。
わたしはこのしばらく後に、もうブログは書くのをやめてもいい、もうじゅうぶんなことが起こった。大きな恩恵を受けたと思いました。
だけどその後もいろんな人から、わたしが書いたことがテトリスのように心にハマったという趣旨の感想をいただくことがあり、続けてきました。
余談2:具現化が固形かエアか
これはここ5年くらい、もっとよい喩えはないものかと探し続けているコンセプトではあるのですが、先日この喩えのまま話したら「わかります」と言われたので書きます。
固形にして排泄する身体になっていると、食事に気をつけたり、トイレのある場所を把握したりしますよね。それと似たメリットを感じています。
なんかいつもオナラを我慢しているような(←固形にならない、という意味)、そういうサイクルがデフォルトになると、自分が取り入れるもの、経験や情報に対して意識が雑になります。
本の感想を書くことは、その情報や物語が自分の中をどう通過していったのかを見る練習になります。検便と言ったらちょっと露骨だけれど、でも、実際そういうところがあります。
* * *
この日の結論:
人は頭の中で言葉を使って思考しているので、それを固形化すると整理整頓・浄化しやすくなります。
ブログを書く個人的・内面的な理由って、なかなか表明する機会がないものです。
質問をいただいたことで実際に話すことができ、そこから話題が色々展開して、楽しい題材でした。こういうことも、わたしの日々の楽しみのひとつです。
<わたしからのお知らせ>
ヨガや瞑想、ヨガニードラをしてみたいかたは、どうぞはじめてのかたも気負わずおいでください。ブログに書いているヨガのあれこれを、実際に身体を使って楽しんでいく時間です。
普段は日曜に、銀座のはずれの静かなエリアで開催しています。
▼17日(日)は、ちょっと大きなおしゃれな日本橋のスタジオで開催します
遠方でお会いした方と再会する満月オンラインはこちら。
これから少し移動が多く、ブログの更新頻度が下がりますが、わたしは元気です。