過去に読んだ谷崎潤一郎による「文章読本」と同じタイトルですが、この本は文章の書き手向けではなく、小説を読む人のレベルを上げるために書かれています。
前半は日本語の特性についての分析が多く、説明がうまい…。なかでも、われわれとしては文字の形や印刷の効果であれこれ思いたくなるものを、外国人はそういうことに注意を払わないらしいという話を興味深く読みました。
後半になるとトピックが「文章の技巧」へ移り、戯曲や評論文も含めてさまざまな種類別に持論が展開されるのですが、自身のやりかたへの葛藤を漏らし始める展開がおもしろく、これはファンサービスかしらと思いながら読みました。ラストは質疑応答。
著者は「第三章 小説の文章」のなかで自ら悪文の手本を書いた後で、その悪さの要素として以下を句読点でつないで羅列します。
- 自分の感覚を誠実につきつめない
- 読者に対する阿り(おもねり)
- いいかげんなリアリズム
- いいかげんな想像力
- 世間へのほどほどのところで妥協した精神
自分のエゴに向き合うことを避けたまま書かれた文章に対して厳しい態度を貫きます。
「第五章 評論の文章」では、以下のように語られています。
たとえ小さい囲み記事や匿名批評のような文章でも、批評の文章のもつ悪さは私の癇に鋭くさわります。おそろしくひどい悪口がすばらしい力強い見事な文体で書かれているということは、いつも私を下手な小説を読むよりも喜ばせます。強力な見事な文章は、批評をあらゆる私的ないやらしいものから切離す作用をします。もし小説を書くことが、一種のうらみつらみであるならば、批評がどうして芸術作品になり得ない理由がありましょう。
あらゆる私文の中にうらみつらみを燃料として認めることはとても大切なこと。ポジティブなポエム文体の文章ほど、わたしには一周二周三周回って、うらみつらみの塊にしか見えません。そんな思いをわたしは常日頃持っている──というよりもデフォルトで装備しているくらい基本設定がそうなので、この一連の指摘に対しては「ほんとそれ!」と思いながら読みました。
翻訳の文章についても、手厳しい態度が貫かれます。
一般読者が翻訳文の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐ放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。日本語として通じない文章を、ただ原文に忠実だという評判だけでがまんしいしい読むというようなおとなしい奴隷的態度は捨てなければなりません。
(第六章 翻訳の文章 より)
わたしは先日1960年に翻訳された小説を読んで、あまりの句読点の多さにときどきイライラしたのですが、小説自体はすごく良くてもう一度読みたいのでこれから別の訳で読もうとしています。ひとつしか訳のない本になるとそうはいかないので、たしかに困る。わたしはこの面ではとても奴隷根性が強いなと思いました。(なんでも読んじゃう)
以下は、「書くこと」についてわたしが日々思うこととも似ていて印象に残りました。
私はこうして文章を書いていますが、去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう。それが進歩の証拠だと思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります。自分の文章の好みもさまざまに変化して行きますが、かならずしも悪い好みから良い好みに変化してゆくとも言いきれません。それでもなおかつ現在の自分自身にとって一番納得のゆく文章を書くことが大切なのであります。
(第八章 文章の実際──結語 より)
今が進歩していると思うのは楽天的すぎるというのは、ずっと書き続けている人ならではの言葉。その時の熱量と鋭さで同じトピックは二度と書けないことを知っている人の言葉だなと思いながら読みました。
この本は「第一章 この文章読本の目的」で、普通読者(レクトゥール)を精読者(リズール)に、素人文学に対する迷いを覚ますために書くと宣言されてでおり、文章の書き方の本ではなく、様々な文章の役割と読み方について書かれています。
引用紹介されている小説は、谷崎潤一郎以外は読んだことのないものばかりで「へえぇ。こういう文章を三島由紀夫は美しいと思うのか」と思いながら読みました。なんかあんまり趣味が合わないというか、美意識が合わないというか、わたしはあまり文章に美しさを求めていないようです。
- 作者:三島 由紀夫
- 発売日: 1995/12/18
- メディア: 文庫