うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「屈託している」という日本語をいまさら知った

この人が文章を書いたらかなりおもしろいだろうに、どこかで書いたりしないのかな…とかねてより思っていた友人が今年からブログを書き始めた。その人は外国で日本語を教えているので、言葉の使いかたに都度確認のプロセスを踏む周到さがある。実際会うとまじめだなぁと思うことの多いその人の律儀さが、ブログの文章になると大きな武器になっている。文章の個性というのは思考の段階で踏んでいく手順や装備のなかにあるものかもしれない、などと思いながら読んでいる。ダシのとりかたが丁寧。ダシの源のエキスは濃い。毒味がある。けっしてやさしくはない。クセになるうまみ。ハッピーターンが止まらない。


そのブログには日本の小説の感想が書かれていて、打率として三分の一くらいはいまのところわたしも読んだことのある本。読んでいない本はむずむずと読みたくなる。遠藤周作は読んだことがないのだけれど、読んでみたくなっている。どんな本の感想もエグみはばっちり残したまま雑なリスクヘッジに走らない、ポエムにも逃げない。社会性を帯びた安心感がある。仕事では仕事の、旅先では旅先の、そして部屋では適当に。そんなふうに心の服を着替えて日々暮らしている人の体重が感じられる文章で、まるで読書エッセイのようだけれども絶対に一般的な雑誌には載せられないすごいことが書いてある。どこかの誰かの代弁はしない。伝聞でもない。本人単体のエグみ。全部「わたしが見聞きして、そのなかから出てきたもの」としてしっかり書いたうえで「そうじゃない?」とも言ってこない。そんなのずるい。信用するしかなくなるじゃないか。


そしていよいよ先日、きたのです。きたー! まってたー! まってたのー! という本の感想が。
その感想を読んで、わたしは「屈託している」という日本語をいまさら知ることになりました。小説に登場する人物のことを、その人は「屈託している」と書いている。"屈託のない" というフレーズはたまに見聞きするけれど、"している" という状態とはいかに? と思って辞書で検索してみたら

ある一つのことばかりが気にかかって他のことが手につかないこと。くよくよすること。(コトバンク

とある。
なぬ。これはちょうどいま読んでいる別の本と映画(原作は小説)の登場人物とがっちり重なる性質ではないか。夏目漱石の「行人」に出てくる一郎、そして「勝手にふるえてろ」の良香(ヨシカ)。


その人のブログを読んでからしばらく、屈託は極端な判断を生む。生むなぁと、そんなことを断片的に高頻度で考えることになりました。わたしは一つどころかたくさんのことが気にかかって頭が「フルーツバスケット!」と言った瞬間のようになることがたまにあるのだけれど、いまは夏のせいにしている。分散しつつ漠然と屈託しているような気がすることは、まああるにはある。


毎日のように「屈託しろ」といわんばかりの語調のニュースが流れ、「ほうら、あなたの立場が残念な者として扱われる事実が社会にありますよ。損してますよ。損するかもですよ。怒りなさい! 反応しなさい!」と煽ってくる情報を横目で見ながら、そこへ反応する体力をほかのことに使おう、もっと自分にとって明るいことに思考を使っていこうと考えながら暮らしている人は、実は多い。わたしの周りはそう見える。先日もヨガクラスのあとに雑談でそんな話をしたばかり。じょうずに「屈託しろ」を退けている人の存在が心強い。


30代・40代というのは個人それぞれの所有や所属が細かく変化していく年代だから、同じ事象がポジティブにもネガティブにも映る。その切り替えがたくさん起こる、いままさにそういう時期を過ごしているのだと思う。そのブログを書いている人のような、年の近い友人が自己の中で起こる視点のスイッチをつぶさに言語化してくれるというのは、とてもありがたい。同時代を生きる楽しみを感じます。