先日『プロカウンセラーの聞く技術』を読んで気づいたことをこのブログに書いたら、自分も同じ課題を感じつつそのままにしていた、というかたがその気持ちを文章で伝えてくれました。
物理的に近づかない、関わらない、だけでは
本当の解決にならないんじゃないかと感じていた。
とのこと。
うんうん。そうそう。そこなのよ。
物理的に近づかないことは賢い選択だけど、これが是として固定されると自分の耐性が弱すぎると感じる。
わたしがインド旅行に求めるエネルギーの要素がまさにこれで、日本では考えられない露骨な主張や行為に関わることができた事実が、根拠のない自信として積まれていく。そんな感覚があります。
『プロカウンセラーの聞く技術』には、プロは目の前の人から思いっきりディスられても相づちを打てるように鍛えられていると書かれています(3章)。
この本を読んだ時に書いたブログで引用した「われわれは悪口を言うことで悪くならずにすんでいる」という7章の説明は、ヨガや仏教のような(不妄語・不綺語・不悪口のような)教えを意識しているとしんどく感じるのだけど、待て。Wait!
現実社会で視点を平らにしてみたら、修行者の戒律を身近な日常に持ち込んで他者に実践を期待するマインドのほうが病んでいる。
さて。
冒頭に書いた人は、ご自身もヨガの指導をされていらっしゃいます。
わたしが返信に
ヨガの場面では「サットヴァぶってる」みたいな感じになりませんか(笑)
と書いたら、
その部分をおもしろがってくださって、
人がサットヴァぶってることには敏感でも、
自分のサットヴァぶりっ子には気づかない…
とのことでした。
「サットヴァぶりっ子」て。V が多すぎて唇がカユくなるサハナー・ヴァヴァトゥのマントラのようです。
わたしはその話には興味を示しません、と自らを統制しているようでありながら耳がダンボになっているとき、
その瞬間のわたしはまさに
チッタがヴルッティしまくりのサットヴァぶりっ子!
なのです。
いやぁ、それにしても便利だなぁ「サットヴァぶりっ子」。
清純派女優の「派」ってなに? みたいなツッコミどころがある。
日々のストレス解消のためにヨガを活用している人の愚痴や悪口を断罪するのは、清純派女優の性愛を許さないようなもの。
そう。日常で疲れているときほど、わたしもヨガの場にサットヴァを求めている。サットヴァぶりっ子が許される場も欲しいし、その気持ちよさを一度知ってしまうと、それを保ちたくなる。
こういうコンフリクトに向き合うとき、ヨガには理論の面も用意されているのが、ほんとうに奥深いなと感じます。
毎日いろいろあるけれど、それでもサットヴァぶりたい自分を確認したり、いまなん%くらいサットヴァぶりっ子入ってるかな〜と内観をしている瞬間に、こういうことをトリグナで説明しようとしたインド人すごすぎないか! と気づく。
こういう話ができる仲間を見つけられることも、恩恵としてものすごく大きいと感じています。
▼この本はまさに、精神的サットヴァぶりっ子の乗り越え方の本です