うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

夏の入り口、模様の出口 川上未映子 著


週刊新潮のコラム「オモロマンティック・ボム!」を集めたもの。文庫本は「オモロマンティック・ボム!」というタイトルのまま出ています。オモロいです。
それにしても、なんだか変な場面に立ち会いやすいのか? でもだれでもひとつやふたつ、こんなおどろきのエピソードはあるものだろうか。タクシーで交通事故にあっている状態でちゃっかり乗車料金を請求される場面とか、エロ整体師の話とか、とんでもない。かと思えば一般的にほのぼのと当時は見られていた「ハチ公物語」のなかにみるこわさとか、見逃さしていない要件の細かさもたまらない。


ちょっとおどろきのナマモノを冷凍する友人の話の後にある

ある出来事や行動に対して反射的にとってしまう態度やむやみに立ちあがってくる感情にこそ自分のなかの無反省な部分が露見してくることもある

という思いや、タクシーに乗ったときに流れるシートベルト着用アナウンスや信号を無視できるようになる境界が気になることなど、日常の判断の微細なところを拾い上げていておもしろい。


全般ライトな案件が続くのだけど、週刊新潮のコラムだからかな、たまに事件について言及されていて、なかでも「おめでたい人」というエッセイにうなりました。こういう指摘は本来誰もが一度は立ち止まるべきところだと思う。このエッセイでは、連続無差別殺傷事件の犯人が挙げていた愛読書が川上さん自身も愛読する哲学の本だったことをきっかけに、こんなことを書かれています。

 哲学的思考は倫理学のそれとは違って、好き嫌いや情念は関係なく「そうとしか考えられない」という意味での「真理」を目指す運動でもあって、それゆえにときには社会道徳と相反する価値観を導くことももちろんある。だからこそ、こんなふうに自分の頭で問いをたてて考えをすすめてゆくセンスが決定的に欠如しながら単に調子だけはいいという人を勢いづけ、じつは論理的思考とはまったく関係のない「情念の部分」に都合良く機能してしまう側面もあってしまう。残念なのでこれも事実なので仕方がない。

そして、このあとがいい。

この事件の犯人は公判での質問に「善悪は人間が作り出した概念。俺には通用しない」などと発言していたのだけど、それについて

「(自分は)常識にとらわれていない、善悪自体がない」
 言ってることは理解できるけれども、本当は存在しない常識や善悪がなぜ社会や個人に存在してしまうのか、そしてそれに従うとはどういうことか、なぜ従えるときとそうでないときがあるのか、などなど善悪をめぐるおそろしい問題はそこから先にてんこ盛りであるのに、そこには行かないし、行けないのだな。

と書かれています。


このような指摘は小説の中でも行われていて、わたしは以下の部分が脳内検索でマッチしました。
すべて真夜中の恋人たち」のなかで、石川聖という人物が酔っ払った勢いもありつつ主人公の冬子に日々の違和感を話す場面のことば。

「スピリチュアルでもエコでもなんでもいいけどさ、ああいう考えかたって、ひたすらさもしいと思わない? 神様でも摂理でも自然でも超エネルギーでも宇宙でもなんでもいいけどさ、なんでそういうものがこのちっぽけな人間の、そのまたちっぽけな個人の日常のこまごました、ほんとうにどうでもいいような問題にまでいちいち絡んでくるようなそんな話があるって思えるのかって話よ」

わたしはこの「なんでそういうものがこのちっぽけな人間の〜」に至る流れとその前後がすごくすきで、石川聖は主人公の「それって、宗教と似ているのかなぁ」という質問に「それは宗教にちょっと失礼かもね」と言います。そしてしばらく後に「鈍さにも色んな種類のものがあるのよ」とも言います。
まえにも書いたけどこの小説は恋愛小説なのか? という小説だよね…(笑)。


わたしも日々、神だの法則だのについて「なんでそういうものがこのちっぽけな人間の、そのまたちっぽけな個人の日常のこまごました、ほんとうにどうでもいいような問題にまでいちいち絡んでくるようなそんな話があるって思えるのか」について思考を行ったりきたりさせる毎日であり、強く言い切ってほしいと願う人がめざとく寄ってきて水を向けてくることを避けられない職種(?)っぽいこともあり、また石川聖さんのようにド直球で語れば吹き矢が飛んできそうな業界と隣り合わせでもあるので、なんとなく励まされます。ごにょごにょ。


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