うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

色ざんげ 宇野千代 著

ずっとエッセイしか読んでこなかった宇野千代さん。「おはん」があまりにもおもしろかったので、この「色ざんげ」も読んでみました。
この小説が出た当時(昭和10年)は、実在の男女の事件が題材になっていたため暴露本のような側面もあって売れたそうですが、そのいきさつを知らずに読んでも引き込まれる文章です。今となっては異常にも見える恋愛が改行なくスピード感とともに進んでゆくのですが、そのやや狂った心境を強烈に手に取るように感じさせるフレーズが、すっと差し挟まれる。


今の感覚でいえば、女性はみんなメンタルのおかしな人ばかりです。泥のような情緒不安定さ。そしてそういう女性とばかり付き合う展開になってしまう男性と作家自身が実際に恋をしその心理を描くというのは、ものすごい仕事。宇野千代さんて、今の時代だったらサイコパスと呼ばれるような人だったのではないかしら。

男性が読んでも「おまえは、俺か」と思いそうなこの感じは「永い言い訳」の西川美和さんの書く男性心理の描写にも見られたものだけど、こういう技能はなんというのだろう。けっして復讐ではない、こらしめたいという気持ちを極力排除した形で書かれることによって生み出されるナマナマしさがすごい。


静かに不安と不快が積み重なって、ほんの数時間身を置いた雑な環境で "波のような鬱憤が心に押し寄せる" と書かれるまでの流れや、女性との情動ベースで行動を決めてきた成りゆきで崩した体調が回復していくときの "僕の病気は薄紙をはがすようによくなった" という薄っぺらさのイメージ表現が適切すぎてこわい。少ない文字列の一行が適切すぎてぞわっとすることが何度かありました。
この小説は、人間のご都合主義的な "薄み" のあぶり出しかたがコツコツ積み重ねるように続いていくのだけど、この積み重ねのリズムの安定感はなんなのだろう。「おはん」の物語の進み方と似た安定感。ぶれない呼吸。
終盤にある、男性が自然な気持ちで女性の名を呼び捨てにしたあとに感じたという "軽い快感" の描写も、もうやめてあげてといいたくなる。「愚かさ」も「能天気さ」も女性の視点での言葉の選択になってしまうところのそれ。男性の自信のなさにもきっと種類がいろいろあって、だいじな瞬間に目標設定値を下げてしまえる人の顛末はさぁこれからが本番ですよと追い込んでくる。そこから踏むアクセルの強みといったら。ちょっと踏まれてみたいくらい。


この小説で描かれている男性の空虚感は、女性側の共同幻想スイッチがオンになっているときには気にならないのだけれど、オフになっているときは厭わしく感じるもの。そして女性はオフになってしまったときの自分への厭わしさからまたスイッチをオンする。なぜか強制的にオンしてしまう。こういうオン・オフを恋愛中も擬似恋愛中も日常的にやっている。すべての女性がきっとやっている。強制終了のリセットではなく、どういうわけか従順スイッチを強制的にオンして楽になろうとする。わかってしまうから恐ろしい。いつのまにかメンタルのおかしな人の一員にひきずりこまれる。
セクハラがなくならない理由には、わたしはこれがあると思っているのだけど、ずっと言語化できなかった。女性がそこで一度オフになってしまったスイッチの状況を自ら「あり」にしていかないと、セクハラというものが成立するロジックを消すことはできないのに、オンしてしまうあれ。あれはなんなの。


わたしはこれまでずっとハイセンスなヨギーニーとして宇野千代さんを見ていたけれど、見くびりすぎでした。もともと、いろいろとっくに見えすぎちゃってる人なんじゃないか。前世が男性で、その記憶をしっかり持ったまま今生では女性をやってみております。エンジョイ! とでも思っていそうなこの余裕はなに。
この人は前世の記憶と今生の業のマッチングを確認するために恋愛というテンプレートを使ってたってだけなんじゃないか。そんなふうにしか見えなくなってきた。もうヨガのことなんてどうでもいい。宇野千代はすごい作家。

色ざんげ (新潮文庫)

色ざんげ (新潮文庫)

 

 

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