2年くらいかけて、ちびちび読んだ本です。いま買えるKindle版のひとつ前のバージョン。
これまでに何冊か「サーンキヤ・カーリカー」の注釈本を紹介してきましたが、どれもガウダパーダ註(ガウダパーダさんの解説)でした。服部正明先生の訳が収録された「バラモン教典 原始仏典」には、今回紹介するヴァーチャスパティ・ミシュラ註の解釈も含まれてます。
ややこしいですね。こういう本です。
<書名>
- サーンキヤ・カーリカー(Samkhya Karika):イーシュヴァラ・クリシュナの残した教典
- タットヴァ・カウムディ(The Tattva Kaumudi):「サーンキヤ・カーリカー」の、ヴァーチャスパティ・ミシュラによる注釈書
<人名>
- イーシュヴァラ・クリシュナ(諸説あるがこの本では1世紀〜2世紀):もとの教典を書いた人
- ヴァーチャスパティ・ミシュラ(9世紀〜10世紀):その解釈のしかたを書いた人(全体を「注釈」「コメンタリー」といいます)
- スワミ・ヴィルパクシャナンダ(現代人):ヴァーチャスパティ・ミシュラの注釈を現代語か英語に訳した人
タットヴァ・カウムディは、英訳だと「The Moonlight Truth」。服部正明先生の日本語訳では「真理の月光」です。
初めてヴァーチャスパティ・ミシュラ註を読んでみましたが、読み物としてガウダパーダ註よりもおもしろく感じました。インド人にはスタンダードな例や王道の聖典との紐づけ解説の多いガウダパーダ註がよいのだと思いますが、ヴァーチャスパティ・ミシュラ註のほうが他の学派との比較が多岐に渡っているうえに、解説のエピソードもユニークに感じます。
出だしの説明に、こんなことが書かれていました。
- イーシュヴァラ・クリシュナはカウシカ・ファミリーに生まれた。(仙人血統、みたいな意味)
- サーンキヤの定説化された書物は「Sankhya Sutra」「Tattva Samasa」「Sankhya Karika」の3つ
- Vasubandhu(世親)よりも古い人のはずなので、紀元1世紀か2世紀の人じゃないか。
- サーンキヤ学派はアイデアリストのヴェーダーンタとリアリストのプールヴァ・ミーマーサー(ローマナイズでこのまま)の中間あたりなんじゃないか。
最後の「夢想思考のヴェーダーンタと現実思考のプールヴァ・ミーマンサーとの間」という説明は、なんかうまいなぁと。
英語でこの手の本を読む場合、「おもしろさ」には原本に書いてあることのおもしろさと英訳のおもしろさがありますが、たぶんこの原本は、そうとうおもしろい。
そもそもインド哲学は爆発的なユーモア・センスにあふれていることを説明しないといけないのですが、わたしはこういう教典注釈を読みながら「ここでそのネタを入れるの? おぢさん、ふざけてんの?」と思うことがあります。
たとえばインドの旅先を散歩していて起こるようなことが、教典訳を読みながらも起こる。「サーンキヤ・カーリカー」はガウパーダという人の註釈が最も有名でスタンダードな扱いなのですが、そのバージョンでも、「存在するものでも認識されないことがある理由」をリストアップした第7節の注釈に、近すぎて見えないものの例として「目の中の目薬」とか書いてあります。ほかのバージョンでも「まぶた」とか。
この節はまじめに読んでいくとすごく盛り上がる、スピリチュアルなモードになりがちな節なのですが、そこで足元の座布団をスッと抜かれてドッカーン! みたいなハズしかたをしてきます。ってのを、すんごい昔からやってます。ユーモア・センスに歴史を感じます。インドの人びとは、日常で定番みたいに話してるジョークもたいへん哲学的なんですよね。
そんな具合なので、わたしのことを「ものすごく研究熱心な人」みたいに思う人がいたとしても、ちょっとちがうのです。感覚的には、昔あった「VOW」という本を読むのと似ています。ヤングは「VOW」、わかんないですよね。毎度ながら、ごめんなさいね。ググってくださいね。そんな感じでおもしろいインド哲学本はたくさんあるのですが、この本はかなり「おちゃめ度」が高いです。
サーンキヤ・カーリカーは、もともと
- 70節までは、イーシュヴァラ・クリシュナ本人が残した節
- 71節と72節は後代の人によって追加された節(といっても伝承の歴史を添えているだけなので、本質には支障ない)
という書物なのですが、「だったらオレも」みたいな感じで最後に2つ、文章を添えています。
でも本編のアーリヤー調(2行でなんとなく統一する)まで踏襲するような割り込み方ではなく、「ちょっと便乗してみた。テヘ」みたいなトーンで、哲学の伝承物語に参加してる。
それまでさんざん他学派の教説、古典などを引用して深い解説をしておいて、最語に「〜という解説を残したのは、僕デース」って追加してる。
ふざけてるの?(笑)
「それまでさんざん他学派の教説、古典などを引用して」と書きましたが、リグ・ヴェーダをはじめとするヴェーダ、ウパニシャッド各種、バガヴァッド・ギーターなどの定番のほか「パーニニ・スートラ」「ニヤーヤ・バーシャ」「ニヤーヤヴァールティカ・ターットパルヤティーカー」「(アーガマ・テキストの)デーヴィー・バガヴァタ」なども引用し、「アウトサイダーのバウッダ(仏教)ですら、このように言っている」なんて解説を挟んであります。
どんだけおもしろい博学おぢさんなんだよ…ってなるのですが、説明がまた、きめ細かい。
以下第5節の解説部より。
By using the word Apta,(in aptavacana)all such pseudo-revelations as the improper scriptures of the Buddists,(Sakyabhiksu),Jains(nirgranthaka)and materialists(Samsaramocaka)are excluded.
こんな解説がさりげなく入ります。
「第5節の "信頼に値する"というフレーズの中にある Apta には、仏教でいう Sakyabhiksu、ジャイナ教でいう nirgranthaka、唯物論者のいう Samsaramocakaは含まれないよー」と、こういう感じでスッと入っています。しかも、全体的に中立性の保ちかたがクール。なにこのおもしろ博学おぢさん、かっこいい…てなります。
サーンキヤは因果論をかなりヴィジュアライズしやすい論理に落とし込んでいるところが魅力ですが、その代表のような第8節の解説でも、こんなことを書かれています。
The cause alone is apprehended through the effects. With regard to this(subject of cause and effect)there are different versions among different philosophers.
(1)Some say(Buddists assert)that existent(effect)emanates from the non-existent(cause);
(2)Others(Advaitins)affirm that all effects are merely illusory appearances on One Reality and are not real entities by themselves.
(3)Others(like Kanada and Gautama)hold that the(previously)non-existent effect(arises)from the existent cause; and lastly,
(4)the ancients(like Kapila)declare that existent(effect)emanates from the existent(cause).
Under the first three of the opinions(about the theory of cause and effect),the existence of Pradhana(Primordial Nature)cannot be proved. The world is of the nature of sound and other elements which are only different modifications of pleasure, pain and delusion.
という感じで、他の学派との因果の論理のありかたを比較した説明がされています。1=仏教、2=不二一元論のヴェーダーンタ、3=ニヤーヤとヴァイシェーシカで、4のカピラはサーンキヤの祖。1〜3は根源の自然物資の存在まで否定しちゃってるんだよね、という説明です。3は、そうか? とも思うのですが、とにかくこのような調子で、たいへん比較の提示のしかたがシンプル。仏教よりも詰めかたがマイルドなのも、いいんですよねぇ。もう仏教の人たちほんとこわい。玄奘三蔵とか。
おもしろい説明もいっぱいで、第13節はトリグナの性質を語る節ですが、そんな例で話すか?! という話が As for instance,〜 から続きます。
ここは物語り調なので、ざっくり訳しちゃいます。
(以下わたしの訳です)
ここに若さと美しさを具えたひとりの女性がいたとする。その徳とするところは、夫に幸福をもたらすこと。なぜなら、彼にとってその女性は喜びの原因のあらわれだから。
しかし、まったく同じ女性が一夫多妻のなかのひとりの妻であるとしたら、それは他の妻たちにとっての痛みの原因のあらわれになる。また、まったく同じ女性がほかの男性を惑わせ、その男性が彼女を得ることができないとしたら、彼にとっては困惑の原因のあらわれとなる。
喜びの原因がサットヴァ性、痛みの原因がラジャス性、困惑の原因がタマス性の説明です。「同じ女性が」ってところがミソ。もう、グイグイもってかれます。そのあと「because, they are seen to co-exist together.」というふうに、同じなのに別の価値の存在に見える。と着地する。おもろいの〜。
練習を続けている人にジーンとくるエエ話も、してくださいます。
以下第64節の解説より。
It is only the constant practice of the things that brings about a direct knowledge of that very same thing. In a similar way, the practice relating to the Tattve also brings about a direct knowledge of those Tattvas. That is why (ie:for the reason of its leading to the knowledge of the Tattvas)wisdom is called pure. The question at to why it is called pure is answered: because it is free from falsity.
「偽り」からわたしを解放してくれるのは、「原理」の知識と、その直接知覚をもたらすコンスタントな練習だけ。叡智は、「純粋」と呼ばれているものだから。
(日本語のところは、わたしの訳です。ちょっとポエミーなアレンジ)
ここ、沁みたの〜。
訳がおもしろいと感じたところもいくつかあって、第48節の解説には「eight occult power」としれっとある。あまり使わないよな、オカルト… などと思いながら読みました。
デーヴァナガリー文字での記述も載っています。3年前に「Kindleにわたしが期待すること」を書きましたが、現実のほうが圧倒的な速さでわたしの期待を超えています。死ぬまでに読みきれないくらい。ワクワクする〜。
▼Kindle本です