うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アガスティアの葉 青山圭秀 著

日本でサティヤ・サイババが知られるきっかけになったベストセラー本を書いたかたの二作目らしいのですが、それをいったん置いておいて、旅行記としてとてもおもしろいです。
前半はアーユルヴェーダ研究者の1994年頃のインド旅行記として読むと勉強になる。それが後半から、35歳になって結婚を意識しはじめた男性のスピリチュアル婚活旅行記っぽくなっていく。俺の人生、うまくいってるじゃないか。いろいろ成就しているし、実際その能力があるじゃないか自分。結婚だって、いつか時期が来ればきっと…。きっと、これから…。出会うはずなんだ。この自分にふさわしい人が! というふうに思考が進んでいく。その様子が旅行記と同時進行する。


著者はものすごく理知的で疑い深い人なのだけど、状況認識を「選ばれた自分」「運命」というバイアスで書き換えてもいく。その描写に引き込まれます。わたし自身、今年インドで詐欺師からカツアゲに遭って帰ってきたばかりなので、この地味に書き換える感じがすごくよくわかるんですよね…。これはカツアゲじゃない、友情だ、親愛だ…。と。ドラマチックな主観世界に身を任せているときって、魂がやすらいでいる感じがするんだよなぁと、その感じを懐かしみながら読みました。

 

アガスティアの葉に書かれた言葉をナーディ・リーダーによって読み上げられるのを聴いている場面にこんな一文がありました。

 それにしてもアガスティアは、一体なぜ、私のことを "愛しい弟子" などと呼びかけているのか……。
(第十一章 カルマを解消する儀式 より)

インドの書物で珍しくないフレーズに反応する著者に、読んでいる側が声をかけたくなる。その文体、テンプレのひとつだよー。ってそんなの学者なら知ってるはずなのに、ちょっとー!落ち着いてー! と、「志村、うしろーーー!」と同じ勢いで脳内で著者に話しかけながら、その先の展開へ連れていかれる。

 

この本はアーユルヴェーダの要約がめちゃくちゃわかりやすいです。とくに前半~中盤は、旅行記を読みながらふつうに勉強になります。

 アーユルェーダで、就寝の際に胃の中に物があってはならないと教えるのは、この時間に胃が動いて器官レベルでピッタが消耗されると、細胞レベルでの代謝が十分に行われなくなるからである。その結果、未消化物が残ってしまう(これをアーマという)。この未消化物・アーマは、体内での行き場に困った挙げ句、ナーディ(気の流れる脈管)を詰まらせ、オージャスと呼ばれる精妙な生命素の生成を妨げる。ところで、このオージャスこそが、われわれが普通にいう生気や精力の源なのである。その生成が妨げられれば、当然、免疫力が衰え、病気発生の土壌を造ることになってしまう。
(第三章 チベットの医学と星の科学 より)

説明がうまくて、するする入ってくる。

 


インド人の友人シャシクマールから聖紐式に誘われた際の描写も、ヴェーダの説明が完結にシャシクマールのセリフとして書かれています。著者は中学生のときにローマ・カトリックの洗礼を受けているのでヒンドゥの聖紐式を受けるわけにはいかないよと断るのですが、先方はこうくる。

 シャシクマールは言った。
「いいかい、この世界には、たった一つの真実というものがある。この否定し難い、たった一つの真実を、われわれはヴェーダと呼ぶんだ。
 この真実は、イエスによっても語られたし、仏陀によっても、そしてマホメットによっても語られた。ただ、彼らはその時代性と地方性の枠組みの中で、当時の人々に理解できるような形で表現した。それに、さらに後世の人々が解釈を加え、宗教として残ったんだ。
 だが、ヴェーダはそれとは少し違う。ヴェーダには、開祖というものがいない。作者もいない。ただ、それは神の息吹として、真理そのものが人間に与えられたんだ。
 そのヴェーダを、宗教的な側面から、いわば比喩的に表現したのがヒンドゥ教に他ならない。だからヒンドゥイズムは、さまざまな宗教の教えの精髄を含んで、それを否定しないんだ。
 だけど、われわれは "宗教" には関心がない。われわれが関心があるのはヴェーダであり、真理そのものなんだよ」
 確かにヒンドゥ教といえば、奇怪な宗教としてのイメージがある。頭だけ象の神さまがいたり、猿の神さまがいる。神さまと神さまが結婚していて、その間に別の神さまが一人、二人と生まれる。挙げ句の果てには、人間の女性がマントラ真言)によって神を身ごもり、マントラで使用する核兵器までが登場するのである。
 しかしこれらは、一つの真理の比喩的な表現にすぎず、ヴェーダの他に、ヒンドゥ教という何か別の実体があるわけではない。
「聖紐式はヒンドゥ教徒になる儀式だと思われてるが、実はそうじゃない。それは、普遍のヴェーダの継承者になることなんだ」
 シャシクマールは、そう強調した。

(第六章 聖紐の儀式 より)

この章全体が、宗教に詳しくない人でも理解しやすい内容で書かれています。

 

さらに終盤は、自分からどっぷりハマりにいくときのメンタル描写にものすごく引き込まれます。
始終、なんのかんのいっても元来この著者は疑い深い人なんじゃないかと思いながら読みました。目の前の人を常に敵か味方かジャッジし続け、自分の生きかたを否定しない人とだけしか関わらないようにしたい、そういうしんどさを抱えてインドへ行ったのではないかな。


アガスティアの葉の占いを経験した後で著者が再びサイババに会うときの心理描写に見える「ピックアップされたさ」はあまりにもナマナマしくて、うわーってなっちゃうほど。このあたりの書きかたのうまさというかエグさかな、そこらへんがベストセラーになった要因だろうと思いながら読みました。

そしてインド旅行あるあるのひとつ「あとになってお金をせびられる」という話も書かれているのだけど、淡々と記述されているようでいてちゃんと悔しさがむっちり伝わってくる。いい意味でねちっこくて暗い。だいたい、インドにハマる人って根っこのところでねちっこい淋しさを抱えていると思うんですよね…。じゃなきゃ行かないってあんな極端なとこ。自分がそうだからよくわかる(笑)。

そんな感じで、わたしは恋の描写以外のところはたまにイライラしつつも楽しく読みました。恋のところはイライラしました。だいたい恋愛も結婚も共同幻想プロジェクトなんだからサイババにハマったみたいに楽しめばいいのに! と。せっかくモテてるのに、なんなのー!その余裕こわいー。そのわりにはすんごい高いものプレゼントしちゃってるし!この見栄っ張り! などと近所のおばさん的ツッコミ実況が始まってしまう。そこも含めて、著者は話の運びがうまい。ワイドショー的なおもしろさで読ませる。


ちなみにわたしは人相や手相や指紋、体液と月の満ち欠けの関係には興味がありますが、星や暦の占いにあんまり興味がありません。アガスティアの葉よりも、序盤にあったチベットの脈診のほうに惹かれました。

 

アガスティアの葉 (幻冬舎文庫)

アガスティアの葉 (幻冬舎文庫)

 

 

上記の本の、サイババにピックアップされたくて焦れる気持ちを描いた場面を読みながら、以下の本にあった雰囲気を想起しました。サイババがカルトだとわたしは思っていないけれど、なんだろうなこの感じは…と思いながら読みました。