うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

鉛筆とヨガマットと鉛筆削りとヴィンヤーサ


今日の写真はわたしの2つのヨガマット。むき出しのJadeは朝の自宅練習用。布のケースに入れているヨガワークスは、持ち運び用。外でどこかのクラスに参加するときはヨガワークスの軽いマットを使用しています。
部屋の隅にマットを取りに行くとき、そしてまた立てかけるときに、いつも同じ気持ちが半分、その日によって違う気持ちが半分。前者が51%以上になるように。そういう気持ちでいると、練習を習慣化できます。


わたしはいつもマットを出すときは少し怠惰なところがあって、終わって立てかけるときには「今日もお疲れさーん」という気持ちがあって、そのあとは別のモードへ移っていきます。朝に練習することのほうが多いのですが、出かける前にほんの一瞬でも「実行を伴った "よい気分"」があると、そのあと難しいことが起こっても「ツイていないなぁ」とか「ちっきしょー」みたいな気持ちが起こりにくくなるように思います。
わたしはこの「実行を伴った "よい気分"」をおまじないのように感じています。そしてこういうものをヨガ以外の分野で見つけると、うれしくなります。
ここで何度も紹介している、「すべて真夜中の恋人たち」という小説に、繰り返し出てくる動作があります。校正の仕事をしている人が、仕事のあとに行う挙動。

わたしはそれらを元の位置にもどしてからさきがまるくなってしまったすべての鉛筆を削って筆箱と鉛筆立てに入れて、シャワーを浴びるために浴室へいき、風呂用の小さな椅子に座って頭を垂れて、しばらくそのままの姿勢でじっとして熱い湯を首のつけ根にあてつづけた。(3章)


 針が六時十分のところにくると、わたしは机のうえに積まれたゲラや原稿を整理して、すべての鉛筆を削ってから鉛筆立てに入れ、それから顔を洗って化粧水をつけて、髪をとかした。(4章)

3章は大きな仕事をやり終えた感のあるときの、いつもの所作。4章はいつものやるべき仕事をやって、そのあと喫茶店で異性に会うという慣れないことに向かっていくときの中間にある、いつもの所作。どちらもオンとオフの間の動作なのだけど、後者は別のモードへのオンを控えています。久しぶりすぎる恋愛感情とか、どう処理していいかわからないんですけど! という場面。
こんなふうに、「だいじょうぶだいじょうぶ。いつもどおりだから」と自分に暗示をかけるような所作が日常の中にあると、落ち着く。この描写、いいよなぁ。と毎回読むたびに思います。


ヨガにはいろんなスタイルがありますが、太陽礼拝の動きを中間に入れる「ヴィンヤサ」には、呼吸と身体の動きを流れに乗せながら整える、そういう効用があります。
流れに難なく乗れるとき、乗れないとき、怠惰が襲ってくるとき、逆に激性がねじれを生み出すとき、毎回のヴィンヤーサのなかに、いろんな一瞬が詰まっています。
怠惰が襲ってくるときは、「この怠惰は、最後のシャバアーサナまでとっておこう」と、リスが頬袋にどんぐりをストックするように、心の中でモグモグします。激性がねじれを生み出すときにはその癖を観察し、次の回で逆ルートでのねじりを試してみて、そこにどんな感覚があるか見てみたりします。わたしはこんな愉しみかたをしています。


これが実に、鉛筆を削っているときの感覚と似ているんですよね…。
いまはメイク道具の眉ペンシルやアイラインペンシルを小さな鉛筆削りの中で回すくらいのことしかしませんが、木の部分を削る感覚と芯の部分を削る感覚を、手はしっかり感じ分けている。わたしは10代の頃にデッサンをしていたのですが、よく使われる4B〜4Hくらいまでの範囲は描くときよりも削るときのほうが硬さを感じていたように思います。
これは、日々のヨガで感じる体重移動の感覚とすごく似ています。あーいま足の裏は5Bくらいやわらかくて濃いけど、肩周りは4Hくらい硬くて薄いな〜、というような。そして手を多く床に着くようになってくるころに、手のひらも5Bくらいになってくる。


わたしはこれまでいろいろな運動をしてきたのですが、感情を表面に出さなくてもよく、細かすぎるグラデーションをひとりでコソコソ愉しむことができるヨガって、いいよぉ〜。ほんといいよねぇこれ。いいわぁ〜。と思っています。