うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

週末に自信を得て蘇生していた

今年の夏に、わたしがヨガをはじめた頃に道場でお世話になった先輩との再会がありました。お互い暮らしぶりも随分変わっているなか、たまたま再会できました。

 

 

10年以上お会いできていなかったけれど、親しみの気持ちはそのまま。

先輩と一緒に練習をしていた頃はいま思うと異常なスケジュールだったけど楽しかったね、と話しました。精神的な時間は一瞬で巻き戻ったけれど、あれから社会は物質的に大きく変化しました。

この感覚を共有できたのがうれしくて、ここしばらく、ヨガをはじめた頃のことをよく思い出しています。先輩の声を脳内再生しやすくなったことで、自然に思い出すようになりました。

 

 

もうかれこれ20年近く前、当時のわたしにとって、ヨガの練習の場へ行くことは、役割を受け持つことで纏っていく “さまざまな” モードを脱いで自分を解放する時間でした。

“さまざまなモード” にはいろいろな角度があって、身体はひとつでも、他者から認識されている自分を多数内在化させていました。

 

 

たとえば職場で担当している「ひとつの業務」をとっても、それが同じ職場という小さな範囲でも、他者から認識されている自分として内在化させるバリエーションはたくさんあります。

 

  • ○○の担当のうちこさん
  • ○○さんと同じチームでよく一緒に業務を担当しているうちこさん
  • ○○チームに依頼を出しているうちこさん
  • ○○さんの後任のうちこさん
  • 前々期から移動してきたうちこさん
  • ○○チームから呼び出しを食らっていたうちこさん
  • ○○プロジェクトであの失敗をやらかしたうちこさん
  • 前職で○○さんと同僚だったうちこさん

(まだまだいっぱい・・・)

 

日常的に、相手に合わせて「はい、わたしが “その” うちこさんです」をやっています。

「なんだチミは」「そうです、わたすが “変なおじさん” です」みたいなことですね。

誰もが無意識にやっていること。この設定の蓄積がまるで十二単を纏っているような感じでした。

 

 

 

 

普通に着てるけど、なにげに重いんだよねこれ。

「意識」を十二単のように纏って、ずっしりきてました。

 

 

 

それを、週末のヨガの練習のときには脱ぐことができました。スッキリできました。

そこでは「いつもだいたいあの辺の位置で練習をしているあの人」でしかない。誰の仕事仲間でもない空間。

その場の人たちと自然に挨拶ができて、精神的に下着&浴衣だけの状態で他人と交流できるのがありがたくて。

 

 

 

社会との接点を別の方法で持つことで、「わたしは肌着を着ているから、なんか一枚その上に羽織っておけばいいのだ」と、そういう種類の自信がつきました。

ヨガで気づく自信は、十二単の「単」ではなく「肌着(襦袢というのかな)」のほうです。

多くの役割を纏う社会のなかにいると、精神的に十二単を着たまま寝ちゃってるようなことって、あるんですよね。十二枚で済めば、まだマシなくらい。

 

 

 

よくよく考えると、わたしが開催しているヨガクラスの運用コンセプトにも、この初期の気持ちが強く投影されています。

その場にいるその人だけを見てる。属性を聞きません。同じ言語が通じるだけで、挨拶が交わせるだけで充分です。内輪ウケみたいなノリを、わたし自身が苦手としています。

 

心が親しくなれる人とはゆっくり認識し合っていけるものだし、冒頭に書いた先輩とわたしの再会のようなことも、生きていればこれからいくつもあるでしょう。

純粋に意識が通うという現象を、そういうものと思っています。

 

 

▼わたしが開催しているヨガクラスはこちら(東京)

 

 

▼地方のかたと再会するオンライン満月ヨガ、次の満月は8月31日(木)です