うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

カーライル博物館 夏目漱石 著


こんなレポートが書けたら、どんなにあたまの中が楽しいやら! と思うような文章。
イギリスで、カーライル博物館を観光してきたよ〜という話なのですが、文章がいちいちおもしろい。

カーライルは何のためにこの天に近き一室の経営に苦心したか。彼は彼の文章の示すごとく電光的の人であった。彼の癇癖(かんぺき)は彼の身辺を囲繞(いにょう)して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴(ピアノ)の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡(おうむ)の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩(おうのう)やむ能(あた)わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く人にもっとも遠ざかれる住居をこの四階の天井裏に求めしめたのである。

夏目漱石の小説に出てくる「癇」という文字はその前後の描写がいつもおもしろいのだけど、昔は「癇癖(かんぺき)」という語が使われていたのですね。この単語、すごく便利。「コンプリート願望の強い、ラジャシックでギザギザハートのめんどくさい精神状態」というのを漢字二字であらわしている感じがイイ。いま使うと「完璧」と音が重なって、ちょっとダジャレっぽくなるのがイイ。



以下のくだりなんて、ちょっとしたスピリチュアル・エッセイ。

カーライルとショペンハウアとは実は十九世紀の好一対である。余がかくのごとく回想しつつあった時に例の婆さんがどうです下りましょうかと促す。
 一層を下るごとに下界に近づくような心持ちがする。冥想の皮が剥げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に倚って通りを眺めた時にはついに依然たる一個の俗人となり了(おわ)ってしまった。

高いところから降りてきて「冥想の皮が剥げる」というところは、「瞑想」ではないところがシビれます。(書き分けを見るとおもしろいですよ)



結びも、おしゃれ。

余は婆さんの労に酬ゆるために婆さんの掌の上に一片の銀貨を載せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後倫敦(ロンドン)の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。

イギリスの話なのに、こうやって書かれると決して黒髪ではないはずの婆さんが、そのへんの婆さんにも見えてきそうな感じがたまりません。


草枕のオープニングもそうだけど、「観光地で出会う婆さん」を書かせたら日本一だと思っていたところが、世界一になったかも。
あまりにもちょっとしたことなのに、おもしろくて、抱きつきたくなります。
(抱きつける場所はこちら


▼短編なのでネットで読めちゃう


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