うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

高慢と偏見 ジェイン・オースティン著 / 阿部知二(翻訳)


1790年代に書かれた原作の文体は現代の英語からするとかなり古雅なものだと訳者の解説にあり、終盤になってやっとわたしも○○嬢というのは長女のことのみをいっているのだとわかったり、そんなこんなで読み終えるのに3ヶ月ほどかかりました。
まえに映画「ジェイン・オースティンの読書会」の感想をここに書いたら、「うちに一冊ありますよ。ゆっくりどうぞ」といって貸してくれた人がいたのでした。ほんとうに、時間かかっちゃった…。前半はちっとも読み進めることができず、このさい先に映画であらすじを追ってしまおうか… と思うほどでした。イギリス式カーストのようなものがいまひとつつかめず、ずっとご近所の人のうわさ話と上下関係、値踏みと評判の会話ばかりが続いてうんざりしました。


読みながら電車の中でスマホに残した感想メモには「ここんちのかーちゃん、大丈夫か」とあり、そのくらい主人公の母親を筆頭に、女たちの結婚への執着にうんざりしました。
が、終盤のある場面まできて、ぎゃーっ☆となりました。



 なにこれー!
 夏目漱石の「虞美人草」じゃないのー!!!



と。
おもしろい…。すべてはこのための助走であったか。
でもこの世界では女性が意志を持っている。女性同士の「まじめ」の使い方が、いい。終盤で主人公の姉が妹に語りかけるこの部分の幸福感がものすごい。

「まあ、あなた、さあ、どうか、まじめになってね。わたくしはごくまじめに話したいの。わたしが知らねばならないことを、何もかも、すぐに話してちょうだい。いつからあのかたを愛していたのか、話してくださる?」(第57章)

すごくいじわるなセリフや感情がいっぱいの小説なのに、ここで胸がうわーってなる。


そして妹のかわりにわたしが教えてあげたい。お姉さん、それはね、第43章のあたりからよと。
とにかく恋心の移り変わりの描写が細かい。ここすき↓(第43章)

「どうして彼は、こんなに変わったのだろうか。それはどこからきているのか。彼の態度がこんなにやさしくなったのは、わたしゆえというはずはなく、わたしのためにというはずもない。ハンスフォードでわたしが責めたために、こんな変化が起ったなどということは考えられない。彼がいまでもわたしを愛しているなどということはありえない」

少女漫画だっ! と思うのだけど、読んじゃうの。


ヤング女性の結婚願望へのつっこみがセリフのあちこちに散りばめられていて、いちいちグサグサくるところなんかは、攻めてるねぇと思う。婚活小説と言いたくなる人の気持ちもわかる。

  • どの性質にも、最上の教育をもってしても克服できない、特殊な悪へと走る傾向、生まれつきの欠点というものがある、とぼくは思います(第11章)
  • 彼女たちは世の中のことにかけては経験がないので、美青年も醜男と同じように、食べてゆけるだけのものを持たねばならぬという、嘆かわしい思想をまだ受けいれられないのです(第26章)
  • 情熱が徳性よりも強かったがゆえに結ばれた夫婦には、持久的な幸福はめぐまれないということは、彼女にもたやすく推測できた(第50章)

そして思う。夏目漱石の「虞美人草」も、婚活小説なのです。この対比を思うとなかなかおもしろい。併せて読みたい組み合わせ。


終盤で主人公の結婚に猛反対するある人物のえげつないセリフが、ほんとうにえげつなくてクイズにしたくなる。

名誉、礼儀、思慮分別、いや、○○が、それを禁ずるからです。

これは、ある人が主人公に「あなたはあの人と結婚してはいけない」というときのセリフ。○○って、言っちゃってる!
虞美人草」で宗近君がオブラートに包んで小野君に言いたかったことの中身には、実はこういうことを含んでいたんじゃないの???
そして「虞美人草」の小野君は、怯んじゃった。でもこの小説「高慢と偏見」の主人公エリザベスは、言い返します。個人主義の世界での徳は、高慢と偏見のなかにある自己を見つめる試練を乗り越えてこそある。そういうメッセージが込められた、男と女と階級社会のエンターテインメント。
夏目漱石が絶賛していたというジェイン・オースティン。読んでみたら、絶賛どころか影響うけまくっとるでないの!!!