うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

覆蔽力と展現力(「よくない妄想」のヴェーダーンタ式分解)


ヴェーダーンタのマーヤー説のすごいところは、ヴェーダーンタ・サーラの66節の、これに尽きるなぁ、と思う。

この無知にどのような能力(sakti)があるかというと、覆蔽力と展現力との二種類がある。

ヴェーダーンタ思想の展開(中村元 著)」のなかでこの部分が詳述されていたので引用紹介します。(ibid. は略号表になく、どの書籍かわかりませんが、コメンタリー書のようです。いちおう記載しておきます)
コメントの題材は、夏目漱石の「こころ」で、Kとお嬢さんが話していたところに先生(私)が登場する場面にしてみますね。「こころ」は妄想の記述がハンパないので、ヴェーダーンタの教材にもってこいなのだ!(太字は引用時の加工です)

「下:先生と遺書 三十二より」
たしか十月の中頃と思います。私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。穿物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子こうしをがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝たいに向うへ行ってしまいました。しかしKの室の前に立ち留まって、二言三言内と外とで話をしていました。それは先刻の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。

という場面。


(1)覆蔽力(avarana-sakti)とはブラフマンをおおいかくす能力である。すなわちアートマン自体は無限であって、輪廻せず、束縛のないものであるにもかかわらず、この無知が観察する人の統覚機能(buddhi)を遮り覆うと、アートマンは真に覆蔽されているものであるかのごとくに見えるようになる。そうしてこの覆蔽力によって覆われていたアートマンに「われは活動主体・享受主体・苦楽を感じる者である」というような、輪廻の架空の想定が生じる(ibid.,69)。それは、ちょうど雲の一群が観察者の視線に入ると、雲が太陽を蔽うかのごとく見えるのと同様である(ibid.,67−78)。またちょうどその自己の無知によって覆われた縄を見て、それを蛇だと思いなす妄想が生じるのと同様である(ibid.,69)。

「Kの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました」という「ただの事実」に対し、そこに居合わせた自身を、その場の主役に引き上げるところまでが覆蔽力。音がして気配がして人が来たので止まったものを、わたしが来たから、とする。音と気配を持つ存在(ブラフマン)に、私がおもいっきりかぶさってくる瞬間の力。「いないと思っていたK」という書き方で誘う意識操作が絶妙。



(2)展現力(viksepa-sakti)とは、無知が無知自身の力によって、それ自身の覆ったアートマンに現象世界を発現させる力である。現象世界とは虚空などのことであるが、厳密にいえば、微細な身体(lingasarira)から始まり「ブラフマンの卵」(brahmanda=全世界)にいたる世界(jagat)のことである。ちょうど縄に関する無知がそれ自身の力によって、それ自身の覆った縄に蛇などのものを発現させる(udbhavayati)のと同様である(ibid.,70−71)。

「逃れ出るように去る」には既に少し展現力が混ざっています。「私に知られると都合の悪い、ってゆーかいま、ふたりはいい感じで仲良くなりつつあったのか?!」までくるともう手がつけられない。「わしは邪魔か!」までいったらクレーマー
道に落ちている縄を見た瞬間に蛇を想起してドキッとして毛穴が開いて汗が吹き出たりする。このスピードはすごいので、分解できないのも無理もないけど、こういう題材だとわかりやすくないですか?




中村先生の説明は「覆う」と「蔽う」の使い分けの微細さが、たまりませんね。
さらに続きます。

 以上の説明から見ると、覆蔽力は主観的方面において自己の本性を昧ませる力であり、これに反して展現力は客観的方面において自然世界を顕現させる力であると考えていたらしい。

「昧ませる力」って、すごく奥行きのある漢字を選ぶものだなぁと、これまたシビれます。



今日わたしが書きたい主題はここからなのですが、「覆蔽力」は自分を救うものでもあります。「つらいことを忘れる力」でもあるのでね。以前なにかの本で森博嗣さんが「忘れること」は機械にはできない、人間の持っているすぐれた能力だ、というようなことを書いていて、人の心についてそういうやさしい機能説明ができるのはすばらしいなぁ、と思いました。
ヨーガでも仏教でも、覆蔽力は諸悪の元だとしてそれを断つべく修行しまくるアプローチが多くて、わたしもはじめのころは「そうだそうだ。修行が足りん」と思っていたのですが、ひとつの力について善悪を語ろうということ自体が、「あるがまま」を見ることができずに蔽われちゃってるってことなんですよね。



わたしはこういう分解の先になにがあるのか、答えを出すことが学問であるとは思っていません。そもそも出ないと思っています。でもついそこで答えを欲しくなっちゃう人もいますね。それがまた苦しみの元なのですが、わたしは、




 これ蛇にも見えるけど、横綱あられにも見えるね! 




というのがいいんじゃないかと思いますよ。わかります? 横綱あられ。チュロスでもよかったんですけどね、わたしは横綱あられのほうが好きなんです。
そんだけ!

(参考:去年の冬に全く同じ主旨のことを書いていた過去ログ




横綱は無理ですが小結あられはアマゾンで買えます(「横綱あられ」で検索したら出てくる・笑)

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▼「ヴェーダーンタ・サーラ」はこの本に収録されています