うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

普遍宗教への階梯 ―― スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集 大野純一(翻訳)

この本は買ってから何年も読み進められずにいたのですが、先日「もどってきたアミ」を読んだ直後に開いたらスルスルと読み進めることができました。こういうことって、たまにあるんですよね…。
「普遍宗教への階梯」は講演集で改行が少なく文字がギッシリ詰まっていて、しかも内容が濃い。日常と両立しながらこのモードへ意識を移すのに毎回難儀していたのですが、アミが意識の橋渡しをしてくれました。

以下の箇所に付箋を貼ったのですが、あらためてこの自然な自己責任論が沁みます。

あなたの義務は機会を与え、障害を取り除くことである。植物は成長する。あなた(←3文字強調)が植物を成長させるのだろうか? あなたの義務はそのまわりを柵で囲い、動物がその植物を食べないように気をつけることであり、そしてそこであなたの義務は終わる。植物は自分で成長する。あらゆる人の霊的成長に関してもそうである。誰もあなたに教えることはできない。誰もがあなたを霊的な人間にさせることはできないのだ。あなたは独習しなければならない。あなたの成長は内側から来なければならない。

(41ページ 普遍宗教の理想 より) 

 学ぶべき最初の教訓はこうである。外側の何ものもののしらず、外部の誰にも責任を負わせず、自分自身に責任を負わせる人間になるよう決心すること。それが常に本当であることをあなたは見出すであろう。あなた自身を掌握しなさい。

(68ページ 仕事とその秘訣 より)

私がすでに一言したように、人間の人格が三分の二であり、彼の知性、彼の言葉は三分の一にすぎない。われわれに行き渡っているのは真人(リアル・マン)、人間の人格である。われわれの行為は結果に過ぎない。人間がそこにあるとき、行為は来ざるをえない。結果は原因の次に来ざるをえないのである。

(78ページ 精神の諸力 より)

いまこの身で生きている毎日は、人間であることを学ぶことをしている。なのにいつのまにか、生きてやっているみたいな生意気が出てくる。知性がなにかに覆われていく。

 

 

以下の箇所は、わたしがヨガを始めた頃に(15年ほど前に)インド人の先生から日常会話を通じて教えてもらったことを思い出すきっかけになりました。その先生はコルカタ出身で、よくスワミ・ヴィヴェーカーナンダの本を読んでいる人でした。

忘れてならないのは、人間は自分自身の行為によって自分の純粋性を失ったということである。

(114ページ 霊魂、神、宗教 より)

あらゆるものを支えているのは生命原理である。

(162ページ ヴェーダの宗教的理想 より)

 ヨガを始める前から「身体が硬いんです」としきりにエクスキューズをする人には、「自分で硬くしたんでしょ。硬いのは頭ネ!」という。上達を急ぐ人には、「練習していればできるようになるから待ってなさい。あなたせっかちネ!」という。そしてアーサナは「さっとやって」という。

この感じはわたしのなかにすっかり根を張って、わたしはヨガの体感的な気持ちよさだけでなく、この考え方に惹かれていたのだとあらためて気づきました。

 

 

以下の箇所は、疑心暗鬼になりやすいときほど、そして自分がネガティブなイメージに支配されやすいときほど、松平健に似たイケメンインド人がこう言っていたじゃないかと思いながら読み直したいと思いました。

問題は、なぜ私が他人の中に悪を見るべきかである。自分が悪にならないかぎり、私は悪を見ることはできない。自分が弱くならないかぎり、私は不幸になることはできない。私が子供だったとき私をみじめな思いにさせるのが常だった物事が、今はそうさせない。主観が変わったので、客観は変わらざるをえなかったのだ──そうヴェーダーンタは言う。

(269ページ ヴェーダーンタと特権 より)

この冒頭の一文がちょっとおもしろくてひっかかったんですよね…。たぶん原文のニュアンスからこうなっているのだと思うのです。なぜ自らそうしようと思って疑心暗鬼になるのだという、そういうことを話されたのだろうと推測しながら読みました。

 

 

この説法集は「原注」にも見逃せない説明があります。 

英語の「創造」(クリエイション)という言葉は、サンスクリットではちょうど「放射」(プロジェクション)である。なぜならインドでは、西洋で見なされているものとしての創造──無から出てくる、ある何か──を信じるいかなる学派もないからである。われわれが創造によって意味するものは、すべてすでに存在していたものの放射である。

(180ページ ヴェーダーンタ哲学 より)

わたしはいつも間に英語を挟んでインドの聖典を読んでいるのですが、マーヤーというものについて理解に困るとき、その主体の心のありようとしては「投影」が近いのではないかと思っていました。ヴェーダーンタの教えには、なにか存在について語るときに、それを語る主体の存在を棚上げしない考え方がベースにあるように思います。なので創造ではなく放射と書かれているのを見て、このニュアンスがとても気になりました。

 

 

この本を読みながら気づきましたが、講演集は声に出して読んで、自分の耳から入れて理解する方法だと入ってきやすい場合があります。

ものすごく低い声で男性になりきって読んでみたりして。そのくらい、文字だけを追うと置いてけぼりになりやすい本です。でもそのなかにガツンとくる短い一文が潜んでいる。声に出して読んで「ちょっと待って、いまなんつった!?」と自分の声をきっかけに発見する。そんな読書をしました。

 

Kindle化もされてる! いい時代だ