うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

甲野先生の身体観と、覆蔽力と展現力


先日また甲野善紀先生の講座へ行ってきました(前回の感想)。聞いてるだけでおもしろい身体漫談。
手首から先と足首から先の動かし方と背骨の連動は、同じような話をされるのだけど、いつも楽しい。ヨガでも気にしていると「身体をラクに動かせる角度とその軌道」のようなものがわかってくる。この感じは、写経をしていると「無」が早くラクに書けるかで全体の呼吸が違ってくるのと同じで、「気空」のなぞりかたのベストなフローが固定化してくると、なんでもとたんにラクになるのだ。
今回は「あなたちょっとやってみて」と言われて教えてもらえる機会が何度かあって、「うん。つかみかけてる」「ここまではこう。ここから先はこう」という感じでコメントをもらいながら動いたのだけど、そのなかで感じたのは、「ヴェーダーンタ・サーラ」にあったシャクティの存在。先生は気配の消し方を教えてくれる。「ここだ」というときに先生がふわりと浮く。忍者ヨガである。
相手を騙すためには、自分自身も半分騙した状態にもっていかないと気配は消えない。そこで「無知の力」を、先生はなにげに使っているように見えた。この配分が出過ぎると「んー、ここまではよかった」と言われる境目を越えてしまう。


わたしは武術のことはわからないけど、ヨガの視点でこんなふうに感じた。

  • 覆蔽力(avarana-sakti)を武術で使うときは、「このひと騙しやすそう」と思われるような気配を出す。アホにみせる。相手の自然な攻めを引き出し、勘ぐらせない。
  • 展現力(viksepa-sakti)を武術で使うときは、しれっとリアライゼーションをする。カメハメ波を、「カ〜メ〜ハ〜ヒ〜フゥ〜」といいながら出す感じ。「メ」で溜める反動を使わない。


妖しく癒しながら懐に入ってしまう。
ヨガではよく「反動を使わない」と言うけれど、たぶん厳密には真っ直ぐなベクトルでの反動は使わないほうがいいという意味だ。回転のベクトルはゆったりとした呼吸とともにうまく使うと、思わぬ深いところまでアプローチできる。気の流れがコイル状にフローするのはとてもよい。そのために、やはり「首」と名のつくところの使い方を丁寧に身につけたい。



わたしは甲野先生の「身体技法を封建的な設計にしようとすることの不自然さ」の解説にいつもタテノリでうなずいている。「この基本ができないと〜」というのは指導者側の都合、というのはヨガの世界にとても多い。はじめての練習で三点倒立ができて、なにがいけないのだろう。ほとんどが物理と算数なので、マインド・ブロックが解ければできちゃう人も多い。
五感からの情報が身体に与えるインパクトの量を計算することや、言語の与える潜在印象に対する考え方も、ほんとうにそのとおりだと思う。甲野先生は袴をはいていて、いっけんヨガの先生ではないけれど、わたしにとってはヨガの先生です。