うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヴァシシュタ仙による鬱経験告白からのラージャ・ヨーガの教え/『ヨーガ・ヴァーシシュタ』第2章の再読

昨年から朝のヨーガ・ヴァーシシュタ&瞑想の習慣について書いていますが、再読でどうしてこんなにも初回と違って感じられるのか、とても不思議な本です。


初回は登場するキャラクターを追いかけさせてくれない、いい意味で不親切な状態で進んでいく設定を理解するのに意識を費やしました。
文字と発言は追っているけれども、教えの構造の枠組みまでは追えていない。なのに再読するとそれも全部書いてあって驚きます。(第2章の最後にけっこうズバッと書かれてる)

 

これは忘れているというよりも、わたしの意識が初回でそこまで理解するようにはできていない。土台がないんです。
初回はラーマに自分の視点が近い状態だったので記憶から落ちてしまったのですが、再読すると、なにげに鬱経験告白 by ヴァシシュタ仙という展開があります。この経緯がまた独特で、それが、ヴァシシュタがそこに在る理由でもある。いまさらながら気づいて椅子ごと引っくり返りそう。

 

ヨーガ・ヴァーシシュタの読書は再読からが第一歩だなと思うほどおもしろく、ラージャ・ヨーガの背景をこんなにも腹落ちする流れで教えてもらったのは初めてじゃないか。そんな展開がありました。

(今日の続きは、いま初回読書中のかたは読まないほうがよいかもしれません)

 

聖者ヴァシシュタは自身の経験を告白したあと、このように語ります。

 どの時代にも、人々の霊的実現を助けるために、創造神は私も含めた幾人かの聖者の姿を通して現れる。そして、人々による政治的職務の正当な遂行を現実にするため、ブラフマー神は公正かつ賢明に地域を支配する王を生み出すのだ。
しかしながら、これらの王たちは権力や快楽を切望することでしだいに堕落し、互いの利益の衝突から後悔の念を抱くような戦争を引き起こしてしまう。彼らの無知を取り除くために、聖者たちは王たちに霊的な叡智を授けてきた。ラーマよ。過ぎし昔、王たちはこの叡智を授かり、それを慈しんだ。それゆえ、それはラージャ・ヴィディヤー、つまり王家の知識として知られてきた。
<26より>

戦乱を見る日々の中にいると、”公正かつ賢明に地域を支配する” ことがどれだけ難しいか、これまでよりも強く感じられます。
ハタ・ヨーガの教典には目指すものはラージャ・ヨーガであるという教えが残されていますが、ラージャ・ヨーガにつながる心のありかたについて理解しようとするとき、この本に書かれている言葉は大きな助けになります。

 

そして、その意図すらも、この2章ですっかり明かされています。

 ラーマよ。個人的に体験されていない真理について説明されたとき、人は寓話の助けを借りて把握するしかない。
<31より>

寓話の “力” を借りてではなく、寓話の ”助け” を借りてとされている背景も、同じ31の冒頭で語られています。

 この聖典の知識の種子を心に植えつけた人は、すぐにも真理実現の成果を得るだろう。その起源は神の言葉ではなく、人間の言葉によるものだが、真理の教えは受け入れられるべきだ。
<31より>

第2章は再読するといろんなことがしっかり書かれている章で、知識の種子を植え付ける土台をまずしっかりしなきゃねと、その段階が第1章と第2章の流れになっています。


帯には「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の金字塔」と書かれているけれど、ヨーガ・スートラやハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーなどのハタ・ヨーガ教典の教えを理解する助けにもなります。