うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヴェーダーンタ・サーラ(「ヴェーダーンタ思想の展開」中村元 著」より)


ヴェーダーンタ思想の展開(中村元 著)」にあった『ヴェーダーンタ・サーラ』を紹介します。
よくいうインド哲学の「哲学」の部分はサンスクリット語だとDarshan「ダルシャン」という単語が使われることが多くて、これは中村先生の説明(P105)によると、原義は「見ること」を意味しているのだそうです。わたしもインド哲学の各派は英語の philosophy よりは point of view のほうが近いと思っていて、いろんな登山口から富士山に登ったことがある、というのと似たような感じです。
みんなが人生は苦しいものだという前提で「解脱(もう人間に生まれてこなくてオッケー)」という頂上を目指しているのだけど、

  • なぜ疲れるのかの原因を究明して対応しようとする⇒サーンキヤ
  • 道具とか準備運動とか休憩のしかたなどにこだわる⇒ヨーガ
  • 目標やモチベーションのキープのしかたにこだわる⇒ヴェーダーンタ
  • わざわざ苦しみに来て苦しいのはあたりまえ。しつこく認識する⇒仏教

というように、登山中の萌えポイントが違う感じ。


わたしは世の中を理解したり身体で感じていくのはサーンキヤを、でも社会のなかで生きていくにはヴェーダーンタも(ラマクリ師匠&びべたんのスタンス)、というのが個人的に好きなものの見方なのですが、そういう意味でこの『ヴェーダーンタ・サーラ』はとても興味深かった。

と、そんな書です。



中村先生は

ヴェーダーンタ学派は、絶対者ブラフマンに関する認識と非精神的物体に関する認識のみを問題としていて、この二種類のみしか考えていない。しかし、われわれはさらに個々の精神的な存在に関する認識や社会的な意義を担った事象の認識をも考えなければならない。しかるに、ヴェーダーンタ学派がこれを問題としていないのは、彼らは社会的生活から離れて個人の修養、欲望の静止につとめていたため、それらは彼らの関心外にあったのであろう。(P337)

と解説されています。それぞれの時代での教えの生かしかたは、考える人の課題。




わたしはインドのヨーガ周辺の古典を「こころの仕様書」として読んでいるので、この書はヴェーダーンタ側にいるのに、不二一元論が「無知」の説明にトリグナ説をとり、質料因のようなものとしたというのは、なんか垢抜けてる! と思いました。
ビートルズのサージェント・ペパーのジャケットに「WELCOME THE ROLLING STONES」って書いてあるのと似た感動。ニヤニヤしてしまいました。……のですが、中村先生はいつだって冷静です。

それが純質の質料因であり、ブラフマンとは別なるものであるならば、無知は独立な実体となり、不二一元論の立場がくずれることになるから、後に述べるように、質料因はブラフマンであるということにしている。ここに他派の攻撃を受けるような弱点が存するのである。(P300)

やっぱり(笑)。立場は崩れていいと思うんですけどね。無知の追い詰めかたはドMの仏教に到底かなわないんだし。



いろいろおもしろいのですが、全240節のなかから、興味部かかったものをいくつか紹介します。

<11> これらの恒常の儀式などの究極の目的は、統覚機能の浄化(buddhisuddhi)である。しかし念想の究極の目的は、心の統一である。

末尾がヨーガ寄り。



<21>忍耐とは寒暑(尊敬と軽蔑・得と非得・悲しみと喜び)などの対立を耐え忍ぶことである。

一節一節の簡潔さが良い。



<39>この無知は、それを全体(総相)として考えるが、あるいは個々別々のもの(別相)として考えるかによって、ひとつであることもいい表わされ、また多であるともいい表わされる。
<40>なんとなれば、あたかも多数の樹木を「総合的に」全体として考えるときには、これをひとつのものとして「森」といい表わすように、あるいはまた多くの水を全体として考えるときには、これを「湖」といい表わすように、同様に多くの異なったものとして顕われているもろもろも個我に存する無知も、全体として考えるときにはこれをひとつのものとしていい表わす。
<41>なんとなれば『ひとつの不生なるもの(あるいは、牝山羊)を』などと聖典に説かれているからである。

日本人は「木を見て森を見ず」という表現を聞きなれているから39&40のようなたとえは馴染みやすいと思うけど、41のように、「それもここに暗示されているんだ」というような理解は苦手な人が多い気がします。察するとか流れを読むというのではなく、「象徴としてとらえる」という考え方。リンガの信仰とか、これが感覚的に入ってこないとよくわからないですよね。でも「象徴としてそこにおいておく」ことで次の精神状態にすすめるという考え方は、インド思想の中でも特にすばらしい発見だと思います。



<43>この「無知の全体」によって制約された純粋精神は、全知者であること、万有の支配者であること、万有を導く者であることなどの属性を有するものであり、未顕現者、内制者、世界原因、および主宰神と呼ばれる。
<44>すべての無知を照らすがゆえに「それには全知者である性質がある」。なんとなれば『全知者にして万物を知る者は』(Mand. Up.,1,1,9)などと天啓聖典に説かれているから。
<45>主宰神は万有の原因であるがゆえに、この「無知の」全体は原因としての身体(karanasarira)である。

43の「純粋精神」は、流れからしてサットヴァ。で、44で「マーンドゥーキヤ・ウパニシャッドに書いてあるし!」ってなって、ブラフマン身体説に持ち込んでる。【サーンキヤからプルシャを抜く⇒サットヴァの機能を格上げ⇒その原因でもあるブラフマン最上】ときた!
ちなみに43の「未顕現者」はアヴィヤクタ(avyakta)。中村先生の注釈だと、avyaktaはサーンキヤでは特殊な意味の述語で、「非変異」と訳される、とありました。「変異せず顕現もしない状態で有るもの」となると、「目に見えないもの」がさらに理解しやすくなりそう。



<57>それにおいて一切のものが休息するがゆえに、それは熟眠である。
<58>まさにそれと同じ理由によって、「粗大な(感覚されうる)身体と微細な(感覚されえない)身体との没入する場所である」といわれる。
<59>そのときこの主宰神と知慧我とは、純粋精神によって輝かされたきわめて微細な無知のはたらきによって歓喜を享受する。
<60>『知慧我は歓喜を享受し、意識を口となす』(Mand. Up.,5)などと天啓聖典に説かれているから。また「わたしは安らかに眠った。なにものをも意識しなかった」という回想が、眠りから覚めた者に生じるからである。
<61>この総相と別相とのあいだに区別の存在しないことは、あたかも森と樹木、あるいは湖と水のあいだに区別の存在しないようなものである。

ヨガニードラやるひとは60と61が読みどころよぉ。



<66>この無知に、「覆蔽」と「展現」と名づける二種の能力がある。

ヴェーダーンタは、「妄想(マーヤー)には力(シャクティ)がある」という考え方なんだけど、それを分解してくれているこの節と、その解説がとてもおもしろかった。縄を見て蛇と見間違えるという、ウパニシャッドでおなじみのあの喩えの話です。(そのうち別トピックで書きます)



<72>(この)二種の力ある無知に制約された精神は、それ自身を主として考えると、動力因(nimitta)である。またそれ自身に対する制約を主として考えると、質料因(upadana)である。あたかも蜘蛛が、糸という結果に対して、それ自身を主として考えると動力因であり、またそれ自身の身体を主として考えると質料因であるようなものである。

アムロガンダムを運転しているのか、ガンダムを運転する指示機能としてアムロが働いているのか。「僕にしかできない」と思って執着しているけど、たぶんララァも運転できるの。



<167>「汝はそれである」というこの文章は、三つの関係によって、「分かたれない」という意味を覚らせるものである。
<168>三つの関係とは、すなわち

  1. 二つの語が共通のよりどころをもっていること
  2. 二つの語の意味が限定するものと限定されるものの関係にあること
  3. 内我と語の意味とが、間接に表示されるのものと間接に表示するものとの関係にあること

である。

ヴェーダーンタって、「関係」の心理学みたいなところがあるね。サーンキヤは、「展開」の心理学。




(208以降に「三昧」には「分別(主客対立)をもつ三昧」と「分別(主客対立)をもたない三昧」の二種類ある、という説明の流れで)

<212>それではこの三昧と熟睡とは無区別なものとなってしまうだろう、という疑いを起こしてはならない。なんとなれば作用が顕われないという点では両者は共通であるが、ただその心作用自体の存在するかしないかで、両者の区別が成立するからである。

ここでは「三昧と爆睡って、同じじゃね?」という話をしています(笑)。で、同じじゃないのよと。この流れを読んでいると、夢を見ているときは心作用(vrtti)があるけど、おだやかな粘着の無い夢をみているときは有尋定に近い状態なのか、と思える。



同時代のハタ・ヨーガ古典が「グルと弟子」の設定で進んで封建的なノリなのに対し、こちらは「だってあの書に記してあったもん!」という調子で進んでいくのがとてもおもしろいなぁ、と思いました。
なんというか、二次創作っぽいおもしろさ。ひさびさにのめり込みました。


▼この本に収録されています