うちこのヨガ日記

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シャンカラ ― 原典、翻訳および解説 湯田豊 著


ブラフマ・スートラの序論と第1章1〜4をシャンカラが注釈したものを解説する本です。
シャンカラはアドヴァイタ・ヴェーダーンタの思想家でありながら、注釈者というスタンスをとっていたため、後世もあちこちに登場します。
わたしはヨーガとサーンキヤ以外の六派哲学の中でも、シャンカラヴェーダーンタは最後に読もうと思っていました。ギーターの注釈など各所で触れるシャンカラの主張に「なんともいえぬ巧妙さ」を感じていました。
ヴェーダーンタ哲学は以前「ヴェーダーンタ思想の展開」に収録されている「ヴェーダーンタ・サーラ」の中村元訳を読んだことがありましたが、これは15世紀のもの。シャンカラ派の入門書と言われているものです。
そんな疑い深いスタンスで臨んでいたシャンカラですが、以前「バラモンの精神界 ─ インド六派哲学の教典 訳・解説 湯田豊」を読んだときに訳のスタンスがすごくすっきりとして見え、このかたの解説ならシャンカラに呑まれずに読めるかも…、と思い、読みました。結果、大正解。
訳本でありつつ解説がすばらしくて、たとえば「マナス」もこのように書かれています。

サーンキヤ哲学においては、マナスはアハンカーラおよびブッディと区別されるけれども、ヴェーダーンタ哲学においては1つの内官が認められているだけである。ここにおいては、内官はマナスと称せられる。しかし、それは無差別にチッタ(citta)、ブッディ(buddhi)、あるいはヴィジニャーナ(vijnana 認識)とも呼ばれるのである。
(P36 序論 訳のあとの解説より)

ヴェーダーンタ哲学においては」と「ここにおいては」というように、どこの何を引用しているのかがセットになっていないと、実のところ話せていることにならない。と言う点において、この本はとても解説が丁寧です。



この本は末尾の用語集もよくて、混同されやすいことも記載されています。たとえば、「citta」「saksin」はこのように書かれています。

citta
意識、心〔チッタは、しばしば純粋意識としてのチット(cit)と混同される。チッタは外科いいの事物の認識とかかわる思考の一部である。それは内官の1つ〕


saksin
証人、目撃者、傍観者〔文字通りには、目を有する人〕;内官によって制約されている純粋意識(caitanya)〔それはサーンキヤ=ヨーガのプルシアに対応する。それは内官(antahkarana)のもろもろの状態を受動的に眺めるだけであり、喜びおよび悲しみ、幸福および不幸のように個人に到達するものをすべて知覚するけれども、それらは全部マーヤー(maya)の戯れであることを知っている。サークシンは一切を目の当たりに見る純粋意識〕

他の学派の定義と混同されやすい点の解釈がことごとく明快な本ですが、ヨーガ・スートラにもある「イーシュヴァラ」のシャンカラによる定義を説明する箇所もありました。

シャンカラブラフマンを全知であり、しかも全能であると定義した。ブラフマンが無知という制約(upadhi)を離れていることを示すために、彼はブラフマンを全知であり、そして全能を備えているブラフマンであると考えたのであろう。全知全能のブラフマンは世界原因でもある。ブラフマンをわれわれが全知全能の存在であると解釈すれば、それはイーシュヴァラ(Isvara)であるという印象を与えるに違いない。イーシュヴァラは各人の意識の内部に存在する人格神である。イーシュヴァラは全知全能である。しかし、どうしてイーシュヴァラは全知なのであろうか?
(以後解説続く。ここからは「ヴェーダーンタ・ヨーガを学んでいます」というような専門的な人の領域になるかと思うので引用ここまで)
(P61「セクション1 論議の対象としてのブラフマン」解説より)


シャンカラは世界の原因を非精神的なものではなく、精神的な原理として理解したのである。彼の考えに従えば、世界原因はブラフマンないしイーシュヴァラである。しかしながら、出生、存続、崩壊の原因としてのブラフマンに関する定義をシャンカラがこのスートラにおいて与えるのは適切ではない。世界原因としてのブラフマンは、実際にはイーシュヴァラである。イーシュヴァラは幻影と結び付けられているブラフマンであり、それは高次の存在ではなく、低次の存在である。このことは、すでにジョージ ティボーによって指摘されている通りである(The Vedanta-Sutra with the Commentary by Sankaracarya Vol,1,p.,XCii)。
(P73「セクション2 定義の対象としてのブラフマン」解説より)

これらの解説を読むと、なぜシャンカラはそこまでしてブラフマンになにもかも集約させたがったのだろう、という疑問が太くなっていきます。



この本ではシャンカラの思想の特徴について矛盾も含めてかなり深く切り込んでいますが、以下は読んでいてとてもすっきりしたところ。

シャンカラ哲学において特徴的なのは、変化に対する恐怖あるいは生成に対する憎悪である。シャンカラによれば、本来的な自己としてのアートマンは全然変化しないのである。
(中略)
永遠に変化しない不動のアートマンは、私見によれば、真理であるというよりもむしろ1つの信仰にすぎない。変化を恐れ、生成を憎む特異体質の哲学者だけが、超現象的なアートマンに対する信仰を告白するのである。
(P119「セクション4 直接の関連」解説より)



ミーマンサー学派においては、知識は心の活動のようなものであるとみなされる。シャンカラによれば、知識は活動ではなく "事物に依存している" のである。「それゆえに、ブラフマンの知識は人間の活動に依存しない・・・それはむしろ・・・事物そのものに依存している」、というシャンカラの発言は、特に注目に値する。彼は破滅あるいは没落を極度に恐れた。彼は絶対的な確実さ、あるいは危険のない安全を欲したのである。
(P133「セクション4 直接の関連」解説より)

サーンキヤをはじめインドの哲学はこころのはたらきを図にできそうなほどドライに見ているにも関わらず、シャンカラだけはどうにも頭で図が描けなくて、これは自分がヒンドゥー教に帰依していないためかと思ってたのだけど、この解説を読んで妙に納得しました。
そして、そんなふうに思えてしまうのには、やはり自分がヒンドゥー教に帰依していないためというのも少しあるみたい。

シャンカラブラフマンの認識ないし自己の探求を究極の人間の目的とみなしている。彼はブラフマンないしアートマンの存在(tattva)を確信し、ブラフマンアートマンであることを信じていたのである。しかし、ブラフマンアートマンと1つであるという命題は、普遍的な真理であるというよりも、むしろヒンドゥーの中心的な信仰である。
(P151「セクション4 直接の関連」解説より)



彼は大胆な仮説を否定し、唯一の真理を探究した。いや、彼は真理の探究者ではなかった。彼は否定され得ない自己を彼自身の哲学の出発点とみなし、しかも、それを人間の目的であると宣言しただけである。確実で、しかも必然的な認識のみが肯定されるべきである。このように考えて、彼はブラフマンないしアートマンを探求した。いや、彼はブラフマンないしアートマンを前提としたのである。シャンカラに欠けているのは、自己批判の精神である。彼は科学的というよりも、むしろドグマ的であった。
(P159「セクション4 直接の関連」解説より)

ほかの学派や仏教の一部がおそろしくロジカルであるのに対して、ヴェーダーンタが主流化していったのは、なにか回帰したい潮流のようなものを孕んでいる気がしました。



ほかにも

  • シャンカラの哲学における身体の蔑視は注目に値する。(P170「セクション4 直接の関連」解説より)
  • シャンカラは自己自身の学説をウパニシャッド聖典によって権威づけようと企てた。文脈を無視して、彼は聖典を強引に解釈したのである。(P184「セクション4 直接の関連」解説より)

などと鋭い指摘がありつつ

  • 法に程度の差があることに関して、シャンカラはほんの少しだけ言及した。快楽および苦痛に程度の差があることを、シャンカラは認めた。この意味において、彼は現実を正しく認識する目を有していたと言えよう。

(P115「セクション4 直接の関連」解説より)

とも書かれています。
ほかにも、文法的に無理のあるウパニシャッドの解釈など、これだけ読めたらそうとうおもしろいのだろうなという解説がたくさんありました。


この本はニーチェの思想に精通しながらインド思想にも興味のある人に、かなり興味深く読めるのではないかと思います。
ものすごく短く感想を書くと、かねてより「シャンカラの論法って、無気力肯定系スピリチュアル・ビジネスの下敷きに便利そう」と感じていたところに、「やっぱりか」ということが指摘されていた感じです。わたしは玉虫色の権威解釈をはさみにくいサーンキヤヴァイシェーシカの理論が好きなのですが、ヴェーダーンタ哲学に対しては疑いすぎず、文法と理論によくよく注意して触れていかねばな…、という注意のありどころを教えてもらえた、とてもありがたい授業を受けた気分。
「この思想家は何を恐れていたか」という視点で考えることも、うっすら頭のどこかにありつつ明確に意識したことはなかったので、たいへん刺激的でした。読みながら何度か、空海の思想が「梵我一如」でありながら大日如来を立てている定義づけのしかたを関連想起しました。
一行一行かなり集中力を要すので読むのに半年以上かかりましたが、これでやっとシャンカラの世界に触れることができそう。日本にもすごい学者さんがいるのですよね。びっくり。