うちこのヨガ日記

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(哲学講義として読む)ギャーナ・ヨーガ ― 知識のヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著


前に紹介した「ギャーナ・ヨーガ ― 知識のヨーガ」は講演録ですが、これはそのままインド哲学の総合的な講義録としても読める、たいへんすばらしい内容です。今日はその視点で紹介します。(写真は表紙をペロンと開いてすこしあとに出てくるお姿!)
イギリスとアメリカでの講演が収録されていますが、以下の部分から、どんな人が話を聴きにきていたかという背景も踏まえて読むと興味深いです。

 みなさんの中の多くのかたがたが、マックス・ミューラーの有名な書物「ヴェーダーンタ哲学についての三つの講義」をよんでいらっしゃいます。あるかたがたはドイツ語で、同哲学を論じたドイッセン教授の書物もおよみになったことでしょう。西洋でインドの宗教思想について書かれたりおしえられたりしているものの中には、インド思想の中のある流派が、重点をおいて説明されています。アドワイティズムという流派、すなわちインドの宗教の一元論的な面です。そしてときどき、ヴェーダの教えのすべてはこの一つの哲学体系の中にふくまれている、と思う人もいます。しかしながら、インドの思想にはさまざまな面があります。そしておそらく、この非二元論的形式は、他のさまざまの面にくらべたら少数派に属するものでもあります。
もっとも遠い太古の時代から、インドにはさまざまの思想の流派がありました。しかもそこには、おのおのの流派の信ずべき教義を支持する機関として組織されたり公認されたりした教会とか個人とかいうようなものは、かつて存在したことがありませんでした。人びとはまったく自由に自分の形式をえらび、自分の哲学をつくり、自分自身の宗派をもうけることができたのです。ですからわれわれは、太古以来インドには宗教、宗派がみちみちていたことを見いだします。
(242ページ)

シカゴ万国博覧会 (1893年)『万国宗教会議』で大ブレイクしたヴィヴェーカーナンダ。時代背景の説明のさまざまなことは、もうひとつのブログのほうで年表にしていますが、こういう知識がヨーロッパやアメリカでたいへん重宝がられた時代というのがわかります。ドイッセン教授(パウル・ドイセン)は夏目漱石の「吾輩は猫である」に登場する哲学者・八木独仙のモデルといわれています。わたしが今さら夏目漱石にハマっているのは、まさにこれが理由。思考がインド人化してしまった後で夏目漱石を読み、大変驚いたのでした。



この講演録では、インド六派哲学の要約解説もおそろしいわかりやすさで展開されています。

 サーンキヤ、ナイヤーイカ、およびミーマンサカという、伝統派の三つの部類のうち、はじめの二つは、哲学の流派としては存在してきましたが宗派をつくることはできませんでした。いま実際にインドに普及しているたった一つの宗派は、後期のミーマンサカ、すなわちヴェーダンティストたちの宗派です。彼らの哲学はヴェーダンティズムとよばれています。ヒンドゥの哲学のあらゆる流派は、ヴェーダーンタ、すなわちウパニシャッドから出発しています。ただ、一元論者たちは、ヴェーダーンタを自分たちの専用の名前としました。他のいっさいをすててヴェーダーンタだけを彼らの神学と哲学全体の基礎にしようと欲したからです。やがて、ヴェーダーンタは普及しました。いま存在するインドのさまざまの宗派は全部、その流派のうちのいずれかに属するものと見ることができます。しかしこれらの流派は、その見解においてかならずしも、全部が一致しているわけではありません。
(243ページ)

いまヨーガから哲学の学びに進む=ヴェーダーンタ、みたいになっているのには、このように「流れ」があります。宗派をつくった、つくらなかったという各派の背景。残そう・伝えようとする意志のあり方やスタンスが影響している。このあたりの機微の説明を省かずに講演をされています。



因中有果論も、びべたん節に乗るとまたこれが味わい深い!

山は砂から生まれて砂にもどります。河は蒸気から生まれて蒸気にもどります。植物の生命は、植物の種子から生まれて種子にもどります。人間の生命は、人間の卵子から生まれて人間の卵子にもどります。その星々と遊星たちをふくむこの宇宙は、星雲状態からうまれてきたのであって、またそれにもどるのにちがいありません。このことからわれわれは何を学びますか。あらわれたもの、すなわちより粗大な状態は結果であって、より精妙な状態が原因である、ということです。幾千年もまえに、破壊とは原因にもどることである、ということが、すべての哲学の偉大な父であるカピラによって証明されました。もしここにあるこのテーブルがこわされるなら、それはその原因に、つまりくみあわされてテーブルという形をつくっていた、いくつもの部分にもどるでしょう。人はもし死ねば、彼に肉体をあたえていた要素にもどるでしょう。地球がもし死ねば、それを形成していた要素にもどるでしょう。これが破壊とよばれるもの、すなわち原因にかえることなのです。それゆえ私たちは、結果は原因とおなじ──ことなるものではない、というころを学びます。それは別の形をとっているだけです。
(200ページ)

破壊と創造の関係の説明が、美しい。モチーフはインドでは定番中の定番なのに、なんか美しいんだよなぁ。ちなみにわたしが最近、川上未映子さんの小説「すべて真夜中の恋人たち」を激しく推しているのは、登場人物の教師に語らせるセリフの構成に、これに近い技術を感じるから。(最近自分の中で「川上びべ子さん」になってる)



ジャーネンドリヤ(知覚器官/感覚器官)とカルメンドリヤ(行為器官)の説明も、ほんとうまい。

 つぎに心理学にうつります、私はみなさんを見ています。外界の感覚が目によって私にもたらされ、それらは知覚神経によって脳にはこばれます。目は視覚の器官ではありません。それらは、外にある道具にすぎません。なぜなら、もし背後にあるほんとうの器官がこわされるなら、私はたとえ二○個の目を持っていても、みなさんを見ることはできないのです。網膜にうつっている画像がこの上もなく完全であっても、それでも私は、みなさんを見ることはできないでしょう。ですから、器官はそれの道具とはちがうものなのです。目という道具の背後に、器官がなければなりません。すべての感覚の場合に、これと同様です。鼻は、においをかぐ感覚器官ではありません。それは道具にすぎません、その背後に器官があるのです。
(275ページ)

目に映ってるけど見えてないとか、そういうことの説明なんだけど「背後にあるほんとうの器官がこわされるなら、私はたとえ二○個の目を持っていても、みなさんを見ることはできない」って、ほんとうまい。英語圏のひとに刺さる誇張とインド人に刺さる誇張が重なるというのもあるけど。



以下は西洋人向けの話しかたとして、この時代にここまで話そうとしているのがすごい。

 真のヴェーダーンタ哲学は、限定非二元論者とよばれている人びとからはじまります。彼らは、結果は原因と少しもことなるものではない、という声明をします。結果は、別のかたちで再生された原因にほかならないのです。もし宇宙が結果であって、神が原因であるのなら、宇宙は神自身であるにちがいありません。それ以外のものであるはずがないのです。彼らは、まずはじめに、神は宇宙の動力因であって、同時に質料因であると主張します。神自身が創造者であり、同時に神自身が、それから全宇宙が投影されるところの原料でもある、というのです。あなた方キリスト教徒がおつかいになる「創造」という言葉の同義語が、サンスクリットにはありません。西洋で考えられているような、無から何ものかが出てくるというような創造を信じる宗派がインドにはないからです。昔あるときに、そのような思想をもつ若干の人びとがいたらしいのですが、彼らはじきにだっまってしまいました。現代では、私はそのような宗派をまったく知りません。われわれが創造という言葉で意味するのは、すでに存在しているものの投影です。
(250ページ)

【真のヴェーダーンタ哲学は、限定非二元論者とよばれている人びとからはじまります。】といっていることと、【あなた方キリスト教徒がおつかいになる「創造」という言葉の同義語が、サンスクリットにはありません】というところで、ヴェーダーンタは流出論的なものではないのだけど、過去にはそういう記述のものもあったということ、そこを踏まえて話していることがわかります。ただわかりやすいのではなく、あらゆる過去の歴史を踏まえて話している。



インドの書物(ヴェーダ)の書かれ方についても、もちろん説明している。

 これらの書物の筆者たちはこの文章を、単に、すでに誰でもがよく知っていることがあきらかである特定の事実の心おぼえとして、さっと書きとめたものでした。彼らがはなしてる物語は、ききての一人一人にとってすでになじみふかいものであったことがうかがえます。こういうわけで、いまは一つの大きな困難が生まれます。伝説はほとんどわすれさられてしまい、のこっているわずかの部分はいちじるしく誇張されているので、われわれはこれらの物語の真の意味をほとんど知ることができません。多くの新しい解釈がそこにつけくわえられていて、たまたまプゥラーナのなかにそれらを見いだすとそれらはすでに叙情詩になってしまっているのです。
(180ページ これらの はウパニシャッドのこと)

この最後の箇所がわたしにはかなり感動的でした。「それらはすでに叙情詩になってしまっている」という諦観があったうえで、だからこそ自分で考えて知に近づこうとするスタンス。



そんなヴィヴェーカーナンダの、あらゆることを識別した上での、ワンネスなんてカタカナ四文字じゃ語れないよっていうこれ。しびれます。

 マーヤーは、存在すると言うことはできません。形は、存在すると言うことはできません。なぜなら、それはもうひとつのものの存在に依存しているのですから。それがこのすべてのちがいをつくっているのを見れば、それは存在しない、と言うことはできません。それでアドワイタ哲学によると、このマーヤーすなわち無知──または名と形、またはヨーロッパでは、「時間、空間、および因果律」とよばれている──は、この唯一無限の存在から、われわれに宇宙の多様性を見せているものです。本質的には、この宇宙は一つです。
(287ページ)

ないものは説明できない、ってところまではいけても、こういうことを言語化できるまでの道のりが、すごく長い。読むのは簡単なのだけど。



これは講義録なのですべての話が順序立てて繋がっているわけではないのだけど、六派の思想を少しでも学ぼうとした後で読むと、すごい解説書であることがわかります。
そして、さまざまな思想のエッセンスを講義の中に濃くなり過ぎないように入れつつ、こんな要約をたまに挟む。

 もう一度結論を申しあげると、われわれは一つの宇宙があることを知りました。その宇宙を、われわれは感覚を通して物質を見、知性を通して多くを見、霊性を通して神と見るのです。
(259ページ)

これは、インド六派に共通する「インド思想って、こうなんです」みたいな要約。
軸足の置きかた(=アートマンあるいはプルシャの設定)はそれぞれ違っても、ここは一緒ですということを、こんなにも短いフレーズで言えてしまう技術。


スワミ・ヴィヴェーカーナンダ自身は、思想としては特にあたらしいことは何も説いていません。そこはシュリー・オーロビンドと大いに異なるところ。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは整理しているだけだし分類するならそれはシャンカラの思想なんだけど、それでも他派の思想も精密に分解できたうえで組み立てられていることが、120年後の現代人が翻訳されたテキストで読んでもツッコミどころなく展開されています。もともとアドヴァイタ・ヴェーダーンタと英語はかなり相性がよいと思うのだけど、この本では他派の説明でもその技術がふんだんに展開されていることがうかがい知れて、ほんとうにしびれました。
この本は、日本語訳も格別にすばらしい。漢字にするとそこに漢訳のインド思想の意味が含まれてしまうこと、それによる印象付けの齟齬をできるだけ避けようとして訳されています。



ギャーナ・ヨーガ―知識のヨーガ
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
日本ヴェーダーンタ協会


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