うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シュリーマッド・バーガヴァタム シュリー・クリシュナの神遊びと賢者たち

7年前から英語版でトライしていたのですがなかなか読み終わらないので、インド旅行中に日本語版を持ち歩いて読みました。
今回のインド旅行はなんと2週間でこの一冊しか本を読めませんでした。暑くていつも頭から湯気が出ている感じで…。そんなこんなで、毎日ちまちま読みすすめました。

この本はバガヴァッド・ギーターの教えと似た部分がたくさんあるのですが、説法がさまざまな登場人物と対話で展開されていきます。ギーターではずっとクリシュナ×アルジュナだけど、この物語にはビシュヌ(クリシュナ)、シヴァ、ブラフマーなどの神様のほかに聖者や王様、マヌ(最初の人間とされている)やその家族が入れ替わり立ち代り登場して会話の中でインド思想を説いていきます。

感じとしては、


このような、西遊記カックラキン大放送のような違いがあります。登場人物は被るけれども設定が違う。書いた人はバガヴァッド・ギーターと同じヴィヤーサということになっています。本文中でそれが語られています。
これがね…、おもしろいんです。とても。バガヴァッド・ギーターにはヨーガ・スートラやハタ・ヨーガの教典とがっちり重なるような記述があまり出てきませんが、この物語には座り方が説かれる場面もあったりします。

 肉体を捨てることを欲して、ヨーギーは生命エネルギーが様々な意識センターを通るにまかせます。まずエネルギーは、マニプーラと呼ばれる太陽神経叢の場所に集中します。そこからエネルギーは心臓のアナーハタまで昇り、ヴィシュッダと呼ばれる喉のセンターを通って、さらに眉間のアジュナーまで昇ります。
(第二部 第二章 解脱の達成 より)

ヴィヤーサの息子シュカがパリークシット王に教えを与えている場面。チャクラの説明になっています。

 

この本は訳もすごくよいです。以下の「上載せ」という言葉のチョイスなど、とてもすてき。

プルシャは永遠の目撃者であり、常に自由で、 けっして行為者ではありえません。すべての行為はプラクリティのグナから生じます。しかしプルシャは、じつは至福に満ちて自由であるにもかかわらず、『上載せ』と『同一視』によって、自分自身を行為者であると思っています。
(第三部 第五章 不幸の原因と自由への道 より)

サーンキヤの祖といわれたりもするカピラ仙の説法です。

 

以下は、出だしがバガヴァッド・ギーターの4章22節と似ているな…と思う内容。なのだけどヘビに喩えられるとこれまた別の味わい。

ニシキヘビには、おのずから獲物がやって来ます。そして、たまたまやってきた獲物で満足します。そのように賢者もまた、たまたま得られる食べ物で満足し、料理の良し悪しや量の多少などを気にしません。なぜなら彼の精力と能力は、人生の究極の目標である神と心を結びつけることのために、適切に使われているからです。
(第一一部 第三章 アヴァドゥータのニ四人の教師たち より)

ちなみにギーターの4章22節はこのような節。

たまたま得たものに満足し、相対的なものを超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。
(上村勝彦 訳)

こんなふうに、内容がギーターとビンゴする節を見つけるのもたのしい。

 


同じ章のなかの、この教えのシンプルな文章もすき…。

三つのグナを超越した賢者は、小さな子供のように愉快で心配事がありません。ただ、両者がまったく異なるのは、子供は無知のゆえに幸福ですが、賢者は知識によって幸福なのです。

無邪気に見える大人を見くびると火傷する。

 

この物語では、なんと神々の本音も語られます。

 まことにデーヴァ(神々)でさえも、ブラフマンに達して自分たちを越えようとしているヨーギーを嫉妬している。したがって彼らは、もし隙を見つければ、様々な方法でヨーギーたちを堕落させようとする。
(第一一部 第ニ○章 神の悟り より)

なかなかのサービス・トーク。ぬふふ。

 

今日紹介したのはほんとうにほんとうに、ほんの一部。ナオコおばあちゃんの縁側日記がどの回もおもしろかったように、どの章を読んでも沁みます。
バガヴァッド・ギーターは第一章でなんか挫折した…という人にもおすすめです。

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シュリーマッド・バーガヴァタム―シュリー・クリシュナの神遊びと賢者たち

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