うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

Samkhya Darshan / Swami Niranjanananda Saraswati 著


英文の本で、巻末付録にイーシュヴァラクリシュナのサーンキヤ・カーリカーが収録されています。
さきに巻末の教典を私訳してから前段の解説部を読みましたが、英語辞書とサンスクリット語辞書を参照しながらだったので、読了に1年かかりました。


わたしはヨーガ・スートラのなかでも2章16節「未来の苦は、回避することができる」の言い切りっぷりが好きで、この節の流れの下敷きになっているサーンキヤをここ1年くらいかけて掘り下げてきました。
ヨーガ・スートラは仏教教義への対抗策的な側面があって、もともと4冊あったものが時代順ではない構成でいま一冊になって読まれています。はじめのうちは世親(ヴァスバンドゥ)の唱えた説に対するパタンジャリ・グループの対応がおもしろいなと思っていたのですが、そのルーツの一角を担うサーンキヤを学ぶようになってから、自分の中にまた別の世界がひろがっています。


ヨーガを理解しようとしたときに、サーンキヤの二元論は知らなくても、いまの主流(ハタ・ヨーガ)はヴェーダーンタの思想が語られることがほとんど。でもわたしは、思想の設計という視点で見ると、お悩み解決の方法論としてはサーンキヤが最強なのではないかと思っています。仏教は根っこがきびしすぎるし、ヨーガは練習ありきなので極論は隠遁だし、ヴェーダーンタはインドのヴェーダ権威社会に身を置いていないからピンとこない。
この本では、末尾に「サーンキヤは地図。ヨーガは車」という解説がされており、「すべての事物は意識とエネルギーの戯れによってできている」ということが書かれています。




 人は同じものを見たり触れたりしても
 なぜそれぞれ捉え方や感じ方が違うのか




ここを徹底的に知りたいと思う気持が強ければ強いほど、サーンキヤ哲学はハマれます。
世界のルーツがひとつであることを積極的に認めようとするヴェーダーンタ的教義のほうが文系っぽいので、サーンキヤよりも拡がるのはわかる。わかるのだけど、「つながりから外れることへの恐怖(=死への恐怖)」という心のはたらきがあることや「執着のはじまり」を理解しようとしたときに、ヴェーダーンタのヨーガは自我のやりどころがないという側面もある。「ギザギザハートな瞬間のわたし」の肩身が狭いのです。
サーンキヤはいっけんドライだけれどもぜんぜん完璧ではなくて、人間らしい矛盾もいっぱい。なので教義としては弱いところもあると思う。でも「ギザギザハートを規格外にしない」という設計は磐石です。



 多様性を認める



これは、インド思想の多くに共通する苦しみ回避の方法ですが、そこから自我を滅する方向ではなく、一歩根元に踏み込んで「なぜ多様たるのか」というところを掘り下げている点で、サーンキヤはむずかしいけれども、根底に救いがある。



この本の読みどころは、サーンキヤ二元論の二元「プルシャ」「プラクリティ」を分解整理して解説されている部分ですが、そのほかにわたしは、以下の学びがありがたかったです。

  • サーンキヤのなかにある「Samyoga」というコンセプトの説明が何度も出てくる。
  • サーンキヤの発音の解釈によって解釈の違いがあることの説明が出てくる。
  • カピラのヴィンテージ・サーンキヤ、イーシュヴァラクリシュナの純性サーンキヤ、後になってかぶさってきたサーンキヤヴェーダーンタの違いが説明の中でなにげなく語られる。
  • 「Nirvishaya(神と話さないタイプ)」「Seshvaravada(神と話すタイプ)」の説明。ヨーガはノー・シンボルではないのかと思っていたらイーシュワラが取り扱われていたりする、その背景にこの二つがどう関わっているかがわかる。
  • バガヴァッド・ギーターで語られていることが、どのようにサーンキヤと関連しているかがたまに出てくる。


自然の中にはグナがあるのは、わかった。さて。
自身の中で安定しない、腑に落ちない、不思議なことがまだまだたくさんあるなかで、さらにサーンキヤは、こう来ます。



 世には、"業による" (karmicな)はずみや勢いがある



これが混乱の原因なのではなく、「プルシャとプラクリティの区別がつくはたらきを "遅らせる"」のだそうです。バランスの取れている状態(samya avastha)には「はずみ」や「勢い」がなく、そしてこの「はずみ」や「勢い」すらも「buddhi(=mahat)」の一部になるものであると説きます。ここには善悪の分類がひとつもない。
ヨーガの講座でのプルシャの説明はとてもむずかしくて、わたしは「ここに20人の人がいますね。この、人を20たらしめているものがプルシャです」という言い方をしますが、説明のアイデアはこの本からいただいているものがかなり多いです。
わたしは野口整体野口晴哉さんは完全にこれを体現した思想を語っていると思っていて、もしわたしがインド人なら「あの人はイーシュヴァラクリシュナの化身だ」と言いたくなってしまうところです。



 汚いこともマイナスナことも、なくならない
 


「じゃあどうするか。解脱だな! 瞑想だな!」と座り込む前に、「分類してみた」というのがサーンキヤです。あまりきれいでない色ばかりの色鉛筆も、並べてみると趣があるような。自分の中のどろどろした部分をなかったことにしようとしない。「じゃあどうする」というところの手前で終わっていたから、ヨーガがそれを引き継いで発展させるに至った。その過程で仏教としのぎを削ることになり、より身体的にプラクティカルな方向へ伸びていったのが、ヨーガです。



サーンキヤのうまいとこ、ゆるいとこについては、以前「タントラ叡智の曙光」という本の中でH・V・ギュンター博士という人がおそろしく鮮やかな説明をされているので、参照してみてください。




▼読むには時間のかかる本ですが、ヨーガも英語も少々いけるかなという人は、ぜひ。

Samkhya Darshan: Yogic Perspective on Theories of Realism
Swami Niranjanananda Saraswati
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