うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドの哲学体系2 中村元 著(14章サーンキヤ、15章ヨーガ、16章シャンカラ学派)


先日紹介した本の続きです。サーンキヤとヨーガはもともと少し学んでいたので、それをヴェーダーンタの学者さんの視点で解説されているのがすごくおもしろかった。まあだいたい註解書を読んでいる間は著者に恋するわたしなので「マーダヴァさん、頭よすぎ。クールすぎ!」と、ノリノりです。あとに引用紹介しますが、15章のしめくくりにある「ヨーガ論書の四篇」というまとめは秀逸。「カーマ・スートラ」のヴァーツヤーヤナさんのクールさと似ています。


サーンキヤへの解説では、ここがいちばんおもしろかった。

<第14章 サーンキヤ哲学 最高主宰神は能動者ではない(P112)より>
精神的なものによって監視されていない非精神的な根本原質が、<大いなるもの>などのかたちをとって展開することは、根本原質とプルシャとの結合を原因としているが、実はプルシャのためになされるのである。あたかも、磁石(それ自身)は、はたらくことのないものであるが、近くにあるということによって鉄にはたらきが起こるように、プルシャ(それ自身)ははたらきのないものであるが、近くにあるということによって根本原質に当然はたらきが起こるのである。

根本原質というのはプラクリティのことなんですが、プルシャの殿様っぷりの表現に「磁石」って! おもしろい。どこかに元ネタがありそう。




第15章の「ヨーガ学派の哲学」では、前章でサーンキヤの25の原理説明を終えた後、プルシャについての掘り下げが行なわれています。純粋なサットヴァがラジャスによって悩まされる(乱される)ということはB.G.でも語られていますが、ここを読むと「そうか、独尊がありえるためにプルシャを分けておく必要があるのか」という理解が沸いてきます。

<純質とプルシャが別の異なったものであると知った場合に独尊が起こる (P122)>
このように苦しめられ悩まされているプルシャに、── 注意深く、間断なく、長時間にわたって、制戒・内制など八つの部分よりなるヨーガを続けて実行することにより、また最高主宰神を念じることにより、── 純質とプルシャとが異なった別のものであるという汚れのない認識(khyati)が生じたときに、無明(avidya)など五つの煩悩(klesa)が、根も枝ももろともに根絶される。そうして善悪の業の余力が徹底的に根絶される。それにもとづいて、汚れのないプルシャが独りで存在するということが、独尊であるということが確定した。

ヨーガの説明本でここまでわかりやすいと感じたものを読んだことがないのだけど、中村先生の翻訳の精巧さもあってのスッキリ感なんだろうな。この15章はヨーガ・スートラの解説書としてかなりよいです。




以下は、ハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーと同時代の本であるという前提を鑑みつつ読むと、興味深いです。

(P162より)
<学習> 
学習(svadhyaya)とは、オームという聖音、ガーヤトリー(Gayatri)などの聖句(呪文)を読誦することである。

<二種の聖句>
そうしてそれらの聖句(呪文)は二種類ある。ヴェーダに属するものとタントラ的なもの(Tantrika)とである。


(中略)


それらの(タントラ的な)聖句は、女性と男性と中性の区別があるから、三種である。そのことを説いていわく
『聖句の種類は、女性たるもの、男性たるもの、中性たるものであるによって、三種類である。
女性の聖句とは、火の妻(=svaha という呼びかけ)で終わるものであり、
中性の成句は、manas(南無)で終わるものであろう。
他のもの(残り)が男性である。それらは、すぐれていて、他人を思いのままに従わせる行法に関して完成している』と。

ここは前後関係からミーマンサ・スートラにこの記載がある、という流れに読み取れますが、解説仕様書としてすごく読みやすい。このほかのビジャ(種字)の説明のあたりもとっても要件整理がシンプル。




15章のなかで「成就」を表わす言葉としてマドゥマティー(madhumati)という言葉が使われていて、それに対して反対論者とのやりとりがおもしろかった。

反対論者「あなたは、なにゆえにこのように、突然(理由もなしに)あまりにも気味の悪い、まったく一般には知られていないカルナータ(Karnata)地方やガウダ(Gauda)地方やラーダ(Lata)地方の方言をもって、われわえを恐れさせるのであるか?」
ヨーガ学派「われわれは、あなたを恐れさせるのではありません。そうではなくて、マドゥマティーなどの単語の意味を語源的に説明することによって、あなたがたを満足させようとするのです。それゆえにあなたは、なにものをも恐れることなく、注意してお聞きください。

非常に興味深い。こういう論争をする文化があったということがわかるだけで、シヴァ・サンヒターの出だしの独特の記述の理由が見えてくる。




そしてこの章の最後、このサーヤナ・マーダヴァさんのヨーガ・スートラのまとめかたがいい。すごく頭いい!

<ヨーガ論書の四篇>
 そうしてこのように、医学の論書と同様に、ヨーガの論書は四篇よりなる。すなわち、ちょうど医学の論書が(1)病気と、(2)病気の原因と、(3)目的としての無病(健康)と、(4)治療方法としての薬との四篇を有するように、同様に、このヨーガの論書も(1)輪廻と、(2)輪廻の原因と、(3)解脱と、(4)解脱の方法との四篇を有する。
 そのうちで、(1)捨てられるべきものは、苦しみよりなる輪廻である。(2)捨てられるべきもの(=輪廻)を享受する原因は、根本原質とプルシャの結合である。(3)捨て去ることとは、その結合の絶対的な止滅である。(4)そのための手段が、正しい見解である。
 同様に他の論典(学問)もまた、それぞれに四つの篇を有する、と推知されるべきである。このように一切は明白である。

この、「そのうちで」以降の4つの絞り方、たまらん。要約力がハンパじゃない。しかも、この文字数で。天才すぎる。





第16章「シャンカラ学派の哲学」では、出だしがサーンキヤ説・ヨーガ学派メッタ斬りまつりでおもしろいです。

<一 サーンキヤ説・ヨーガ学派の排斥「もろもろの対象は快感などの起こる本体ではない」より>
栴檀(せんだん)やサフランなど種々なる個物は、時間が種々異なることなどに依存して快感(楽)などの原因となるのであって、快感(楽)などを本性としているのではない、ということがみごとに成立している。それゆえにサーンキヤ学派やヨーガ学派の提示する理由は不成立(asiddha)である、ということが確定した。(P204)

あら痛いとこついてくるわねぇあなた。



<一 サーンキヤ説・ヨーガ学派の排斥「最高主宰神が支配者である」より>
 前に言及した論者(すなわちサーンキヤ学派やヨーガ学派)によって次のような実例が提示されたこと、すなわち──『非精神的なる乳などが、精神的原理(cetana)に支配されないで、犢(こうし)を成長させるために活動する』といわれたこの議論は、どうもみごとではない。なんとなれば、優れた統覚機能(buddhi)なる性質を有する最高神が、乳に対してもまた支配者であるということをわれわれは承認しているから。そうして、最高主宰神(paramesvara)が慈悲心をもって種々なる活動を開始するものである、という説を承認するとしても、以前に述べたジレンマ(dilemma)の起こる余地はない。なんとなれば、創造より以前においては、もろもろの生き物にとって、苦と結合していることはありえないけれども、その苦の縁となる不可見力(adrsta)との結合は可能であるから、それを除去しようとする希望を持って(最高神の)活動することが可能であるから。(P206)

サーンキヤ・カーリカー57節への鋭すぎるツッコミ! やばい。おもしろすぎる。よくわかんないけど日常化学的なモチーフ利用でおもしろく煙に巻いてくれる感じがサーンキヤのチャーム・ポイントなのに、正面斬り。やめてあげて〜、な案件。




以下は、数ある「もうユーの頭がいいのはじゅうぶんわかったよ」と言いたくなる記述の中の一つ。

<二 『ブラフマ・スートラ』第一節 アートマンを説く文句は儀軌の補遺ではない より(P240)>
ブラフマンを説いているウパニシャッドの諸文句はそもそも
【i】語にもとづく認識を命令しているのか?
【ii】あるいはくりかえし念じて修習することを本質とする認識を命令しているのか?
【iii】あるいは直観よりなる認識を命令しているのか?


【i】まず第一の場合ではない。なんとなれば語と意味との結合関係を知り、語および理論の真理を学習した人は、たとえ命令されなくても、聖典の語そのものから(ブラフマンの)認識が起こりうるがゆえに。
【ii】また第二の場合でもない。なんとなればくりかえし修習することは優れた知を生じる原因(hetu)たるものであり、肯定的方法と否定的方法によって完成したものであるとして、達せられるものであるから、(「認識を得よ」というふうに)命令される特質のものではないから。「命令」というものは、いまだ獲得していないものを獲得させるものにほかならないということをわれわれは承認するものであるから。
【iii】第三の場合だとすると、直観は
【a】そもそもブラフマンを本質としているのであるか?
【b】あるいは意(antakarana=manas)の変化の一種なのであるか?


【a】まず前者ではない。なんとなればブラフマンは常住なものであり、それゆえに命令されることのできないものであるから。
【b】また第二の場合でもない。なんとなれば、それは歓喜を直観することを本質としているのであり、それは結果にほかならないから、命令されうる性質のものではないからである。(結果を得るための手段を実行することは命令されうるが、結果そのものは命令されえない。)

練習がすべてだ、って、これをひとことで片付けるヨーガ学派の素敵さに気づかせてくれる、頭のよすぎる分解。ここまで頭がいいと、つまんない! でもwiki記法っぽいこの整理は大好物。




次は、まとめ回答ではなく問答形式でおもしろかったもの。

<四 無明と不二一元 無明が無始以来のものであるということにもとづいて輪廻が起こっている(P302)>
【反問】もしもアートマンである真理が、そのものとしては一切の不幸を離れているのであるならば、それでは、どうして行動をなすものであり、身体などの相を有する牢獄に繰り返し繰り返し入るのであるか?


ヴェーダーンタ学派が答えていう──】その非難はきわめて無用である。なんとなれば、無明が無始以来のものであるということによって、答えがすでに与えられているからである。それゆえに、それを滅ぼす手段こそ、思慮ある人によって追及されねばならない。そうして当惑してはならない。それゆえに、
『汝はそれである』などの知によってその無明が消滅したときに、無上の歓喜の生じることよりなる人生最高の目的が成就するであろう。それゆえに『アーパスタンバ古伝書』(Apastambasmrti)に説いていわく──
 『アートマンを獲得するよりも高いものは存在しない』(Apastambasmrti.1-22-2; Abhyatmapatala,2)と。


【反問】このアートマンなるものは常に得られているのではないか。なんとなれば、それ自身、自己によって、アートマンがすでに得られていない、ということはないから。


ヴェーダーンタ学派が答えていう──】なるほど、そのとおりである。しかしならが無始のマーヤーとの結合のゆえに、あたかも乳と水との混合においては、水あるいは乳を認めえないように、(独立に)現われるはたらきを有する状態に達していない。

その無始のマーヤーとの結合のあたりと、サーンキヤのプルシャ・プラクリティ二元論は、もうちょっと仲良くできんかったもんかね! 




第16章「シャンカラ学派の哲学」では、このほか、manasの扱いが興味深かったです。
ヴェーダーンタになると、かつてはatmanに近いポジションにあったmanasは器官に再定義された感じがあるのですが、その前のステップにサーンキヤがあります。注釈178に「ここでは心的器官を物質的なものと考えていたのである。この点ではサーンキヤ説などと共通である。」という解説がありました。この書では内官が非精神的存在で、それはサーンキヤと同じスタンスで、manasは内官です。
manasの理解はギーター→サーンキヤ→ヨーガ→ヴェーダーンタで微妙に違うのですが、この流れの注釈で読むとおもしろいです。




各派の論争の発展の仕方も方法もおもしろいし、とにかく文体がいい。感情は乗せてこないのに喩えの中に情緒がある。
ウパニシャッドの時代の論争とはまた違うおもしろさがたくさんありました。これを訳せる中村先生は、バケモノだなぁ。パーニニの化身なんじゃないかしら。まったく。

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