うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

聞き書き抄 解説ヨーガ・スートラ 第五講(日本ヨーガ禅道友会)


しばらくサーンキヤがマイ・ブームになってしまい、こちらのほうは半年振りになりますが、「第一講」「第二講」「第三講」「第四講」に続いて、第五講からの紹介です。

ここは三・一からの「瞑想」について掘り下げます。池田書店版の「ヨーガ入門」にあった凝念と静慮の説明もうなるものでしたが、ここでもズバズバとした語り口が楽しい。このなかに、具体性がないと瞑想というのは成功しないと『ヨーガ・サーラ・サングラハ(12世紀)』(Yoga-sara-samgraha)という書物の中に書いてある、という紹介がありました。この書物の中で、プルシャと理性を別に観ぜられることを「サットヴァ・プルシャ・アニヤター・サングラハ」という言葉で語られている、これがヨーガの中心になる思想だ、として三・一の凝念を説明されています。


毎度ながら、凝念⇒静慮のバトン回しがすてき。今回はちょっとおしゃれ。

 体にくつろぎが出てこないと、レセプティビティ(receptivity)、つまり感受性が高まってきません。感受性が高まってこないと、自分の催眠も他人の催眠も成功しません。それと似たような現象が、この凝念によって起こってこなければだめなんです。だから一方では、対象をきわめて具体的に、そして非常に明晰に、あるいは明瞭につかまえるという、そういう能力が高まってこなければならないんですね。
 それが出来てはじめて次の静慮ってやつが成功するんです。それが出来ないうちにいくらやったって静慮は成功せんわけです。

余剰エネルギーがあると、入るものもはいってこないし流れるものも流れない。停滞しちゃってね。くつろぎの重要性を説く、ありがたい説法。




三昧について、ちょっとおもしろいトークもありました。「書くとき、描くときは疑似三昧に入る」という話の流れから。

 私が本なら本を考えて、これを具体的に考えるときには、やはり考える自分というものと考えられる本そのものと、二つあるわけです。二つの面があって、考えられる面というのは客観面なんです。意識の中の客観的な面なんです。それからその本を考えている自分、意識と言うのは主観的な面なんです。その主観的な面が忘れられてしまう。なぜかって言うとその意識の全体が客観面でもって、充実されてしまうわけです。長い間かかって、そのメディテーションをやった結果、対象が意識の全体を支配するようになりますと、主観面というのはあるで消えてしまったような感じがしてくる。それが三昧の状態というやつですね。

「客観的にイケてる無我夢中」の分解。被害妄想ノイローゼになっちゃった夏目漱石に小説を書くことをすすめた高浜虚子って、すごいスワミですよね。(強引な参考:夏目漱石とパタンジャリ




瞑想に関するこの部分につながる一・四九の訳についての本人談もおもしろい。

一・四九 この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている。


いま読んでみて私もこの訳はちょっと難しいなと思うんだけれど、(中略)「事象の特殊性を対象とする」と、原文に忠実に訳すると、そうするより仕方がなかったからしたんですが、ほかの言葉で言えば、具体的な対象つまり特殊性を備えた対象あるいは固体としての対象、一つ一つそれぞれ特殊性を持った個体としての事物を対象にするということなんです。
 だから白墨というものを対象にするときには、白墨というそういう普遍的な概念を対象にするんじゃなしに、どんな白墨やと、半分折れた白墨か、長い白墨か、あるいは角張った白墨か丸い白墨か、しかもその同じ角張った白墨の中でも、こういう白墨だと、それ一つしかないという、そういう固体としての対象、固体としての事物を必ず直観は対象にすると、こういうことですね。これも僕は心理学的に正しいと思うんです。抽象的な概念を対象にするようなものは直観にはならないんですね。

佐保田先生の「教授ならではのおもしろいまわりくどさ」が全開! こういうのが楽しい。わたしの世代だとパソコンを触る人が多いから、「同じ"黒っぽいグレー"でも黒65%・白35%のグレーなのか、黒90%・白10%のグレーなのかではぜんぜん違うよね」という説明で進めるところが、佐保田先生の話術にかかるとこうなる(笑)。
推測でもなく、マーヤーの乗っていない(記憶色バイアスのない)「あのグレー」を想念できるかという話なんだなと、こういうのは聞き書き抄の醍醐味。


日本はゆるいコメンタリー文化がないのが残念ですが、佐保田先生は別格ね(笑)。
(この本は京都にある日本ヨーガ禅道院で購入できます)

▼「聞き書き抄 解説ヨーガ・スートラ」の感想・前後分はこちら


★参考:佐保田鶴治先生の本の感想をまとめた本棚