うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

草枕 夏目漱石 著


想像以上のおもしろさでした。
女性に気持ちを持っていかれることにいちいち理由をつけながら、そんなにいちいち理由をつけている己へツッコミを入れる主人公の心情の描写と、女性の台詞の存在感がおもしろい。
植物の描写もしつこくて、この人の妄想スキャン機能はどういうことになっているのだ、と驚く。「椿が目に入るときの瞬間」「覇王樹(サボテン)の存在感」「木蓮の色」「木瓜の花」。ただそこにあるだけなのに、ものすごくドラマチックな出会いになってしまう。


この本を読むのには、きっかけが3つありました。

  1. この作品はサーンキヤ学派の「三苦」の影響を受けているという説があるらしいため(参考:中村元先生の本)。
  2. インドの「二元論哲学」を読む―イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』」という本の帯に「漱石もあこがれたと言われるサーンキヤ哲学」とあった。
  3. 日本人とユダヤ人」で山本七平さん(イザヤ・ベンダサン)が、『草枕』を読まずに日本を語ってはならぬ。夏目漱石の「草枕」が日本教の「創世記」にあたる。と書いていた。


実際にサーンキヤの影響を受けていたかは定かな説がないようなので、自分の感覚で妄想する。
地理歴史からの推測では、夏目漱石が小説を書く前に留学していた英国では、すでに多くの哲学者や数学者がインド思想の影響を多く受けていたため、そこでサーンキヤの教義に触れる機会があっても不思議はありません。
そこでプルシャとプラクリティを日本語で表現しようと思ったら「主観」「客観」という語を多く使うかな、と思って注目して読んでみたのですが、出てくるのは一回。
この小説の主人公は画家なのですが

有体(ありてい)なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。

「純客観」という表現が出てきます。まあこじつけようと思えばプルシャの在り方そのものですが、ただ集中している瞬間の描写だろうといえば、そうです。



わたしが感じるに、夏目漱石という人は異常なまでに自然のはたらきを分解して細やかに見る技能を持っていて、
以下の間を行ったりきたりする。


 主観 ⇔ 客観 ⇔ 超客観


これが結果としてサーンキヤに影響を受けたかもね、ということのように思います。
別の作品ですが「吾輩は猫である」はまさにこの超客観の役を猫がやるので、バガヴァッド・ギーターでクリシュナおじさんが急に神になったりする感じと少し似ているところもありますが、基本はボヤキや鬱憤のユーモアとして発散されているものと思われます。
夏目漱石の小説を読むことは、自己観察の言語化のトレーニング強度がかなり高いです。なかでも「草枕」は格段にインド思想に近い立場の描写が多い。なんでそこまで言い切れるのか、というところを引用紹介します。

これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。

夢の中に入るには、それだけの余裕が要る。自己の利害は棚へ上げることが、余裕というものなんだなぁ、と沁みる。



うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山(菊を採る とうりのもと ゆうぜんとして なんざんをみる)。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。

解脱を「利害損得の汗を流し去った心持ち」と表現するこの感覚!



レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言(ことば)に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。

ここはとってもサーンキヤ的な表現です。



芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。

漱石はその影響か、この本の中で「屁」を多用します。



これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。


(中略)


言(ことば)を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識(かんしき)する事が出来る。

ただ気になる女性(プラクリティ)に目を奪われているだけなのですが、観察している側に居る自分(プルシャ)の方が上だとする、まさにこここそサーンキヤ哲学ではないか! と思う部分です。



衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒(しゅろぼうき)で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。

ある光景を見て潜在記憶が再び刻まれる場面。このひっかかりを文章で捉えるのは神業。



ようやくこれからさきを聞くと、せっかくの趣向壊れる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣を帰せ帰せと催促するような気がする。七曲(ななまが)りの険を冒して、やっとの思で、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり下されては、飄然と家を出た甲斐がない。世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭いが毛孔から染込んで、垢で身体が重くなる。

東京から熊本へ旅行している画家が、地元の人との会話に混ざっていくときの描写。最後の一行、すごくよくわかる。「垢で身体が重くなる。」って表現が出てくるのがすごい。



昔し宋(そう)の大慧禅師と云う人は、悟道の後、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。

これも潜在意識の話。



何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。怪しからん。

こういう擬人化が思いっきり楽しめるのが「吾輩は猫である」。この痛快なリズム感がクセになります。



恍惚と云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。熟睡のうちには何人も我を認め得ぬ。明覚の際には誰あって外界を忘るるものはなかろう。ただ両域の間に縷(る)のごとき幻境が横(よこた)わる。醒めたりと云うには余り朧(おぼろ)にて、眠ると評せんには少しく生気を剰(あま)す。起臥(きが)の二界を同瓶裏(どうへいり)に盛りて、詩歌の彩管をもって、ひたすらに攪き雑ぜ(かきまぜ)たるがごとき状態を云うのである。

ここはまるでパタンジャリのよう。



余が寤寐(ごび)の境にかく逍遥していると、入口の唐紙がすうと開いた。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただ心地よく眺めている。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。余が閉じている瞼の裏に幻影の女が断(ことわ)りもなく滑り込んで来たのである。

もうここまで超プルシャっぷりを放出されると、もはや「かわいいですね」としか言いようがない(笑)。



余が眠りはしだいに濃(こま)やかになる。人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。

眠りのこの描写には、のけぞった。そして、この部分を読んだとき、「漱石先生、もしや英国でヴェーダを読まれたのですか」とも思える。なんというか、「牛と馬」のチョイスでそう思った。



世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁には、泥帯水(たでいたいすい)の陋(ろう)を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳には行かぬ。

ここまで見えてるって、神ですよね。しかもクリシュナ。バガヴァッド・ギーターはまさに「湛然たる可能力の裏面に伏在」する神の詩。



空しき家を、空しく抜ける春風の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒むものへの面当(つらあて)でもない。自から来りて、自から去る、公平なる宇宙の意(こころ)である。

だんだん宇宙観の領域へ。ヴェーダンティックになっていきます。



普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明であるから、毫(ごう)も刺激がない。刺激がないから、窈然(ようぜん)として名状しがたい楽(たのしみ)がある。

完全なる悟りの描写。



普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。

ヨーガ・スートラの1章17句みたい。



ただ這入(はい)る度に考え出すのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂(おんせんみずなめらかにしてぎょうしをあらう)と云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。

この末尾の文章の痛快さったら!



分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉(ゆ)のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督(キリスト)の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門(どざえもん)は風流である。

「分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす」という表現に始まり、どざえもんで落とす。しかも題材が温泉。天才!



自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦も未練もない代りには、人に因って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。

お疲れですね。わたしお疲れているとき、こう感じます。



憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。

人間であることに疲れながら、神には憐れみがないという。キリスト教にどんな印象を持っていたのだろう。



全体を通してみる限り、仏教でもキリスト教でもなく、完全にサーンキヤ・ヨーガの思想です。
この物語は、主人公が画家。ヨーガとデッサンはよく似ているので、わたしはこの小説に出てくる表現の端々に濃かい(こまかい)刺激を受けました。日本語に圧倒的に欠けている「心のはたらきを表わす動詞」を漢字の使い方で多様に見せている点も読みどころ。
この小説は若い頃に読んでも、わからなかっただろうな。何度も読み返しています。
(書くと長くなる「屁の勘定」の話は別トピックで書きました)


▼「夢十夜」とのセットがおすすめだけど

夢十夜・草 枕 (集英社文庫)
夏目 漱石
集英社
売り上げランキング: 21,908


▼いろいろ解説のちがうバージョンも読みたいならこちら

草枕 (新潮文庫)
草枕 (新潮文庫)
posted with amazlet at 13.11.08
夏目 漱石
新潮社
売り上げランキング: 7,819


草枕 (岩波文庫)
草枕 (岩波文庫)
posted with amazlet at 13.11.08
夏目 漱石
岩波書店
売り上げランキング: 128,436


草枕 (小学館文庫)
草枕 (小学館文庫)
posted with amazlet at 13.11.08
夏目 漱石
小学館 (2011-07-06)
売り上げランキング: 32,566


草枕・二百十日 (角川文庫)
夏目 漱石
角川書店
売り上げランキング: 188,645



青空文庫に感謝(Kindleだと無料で読めます)

草枕
草枕
posted with amazlet at 13.11.08
(2012-09-27)


夏目漱石の本・映画などの感想まとめはこちら