H・V・ギュンター博士とチョギャム・トゥルンパ氏が、1970年代のアメリカで行なった仏教タントラセミナーの内容を収録した本です。講話の演者も構成も日本語訳もすばらしく、かねてより悶々としていたサーンキャ思想に対する鋭い指摘もあり、その部分だけでもこの本に出会えてよかった。チョギャム氏の本はここでも何冊か紹介してきましたが、このH・V・ギュンター博士の分解も、ものすごいキレ。しかも喩えもユーモアも極上。
語根を追って掘り下げられるサンスクリット語、チベット語での置き換え、タントラの教えの定義が細かく説明されているのですが、これだけでも教科書として大きな価値があります。
まずはその面白さが最大限に出まくっている部分から紹介していきますね。
<140ページ 第十章 質問と答 より>(H・V・ギュンター博士執筆のパート)
(マントラについての説明を求められた際の回答)
英語のラブ(Love)を題材に展開─
若い男性が女性に求婚する場合、「アイラブユー」と言ったり、彼女に「マイラブ」と囁いたりするかもしれませんね。そのような言い方をすることによって、彼はほかのどんな言葉でも言い表せない何かを表現しているわけです。ところが、時が経過して、このカップルが離婚の法廷に立って、彼がこう言ったとします。「さあ、マイラブ。別れよう」と。
最初の「ラブ」はマントラです。しかし、あとの方はごく一般的なかたちの話法です。こういうふうに理解するならば、マントラというものをなんら神秘的に考え込む必要はありません。
動詞すらマントラとして説明できてしまうスゴ技!(笑)。
慈悲(コンパッション)は仏典に説かれていることでは愛ではなく憎しみに属する、という説明もシビれます。
<73ページ 第五章 空性と慈悲 より>(H・V・ギュンター博士執筆のパート)
例えば、ある人が敵意をもって他の人を倒し、困惑状態に陥れたとします。すると、力のある人がその困った人を助けてあげて、自分はいいことをしたと悦に入るのです、こんなところが哀れみ(同情)と慈しみ(慈善)の普通の形です。
ばっさり。「泣いた赤鬼」への気持ち悪さのアレです。玄侑宗久さんの「釈迦に説法」にも登場したあの感じ。
<144ページ 同じく 第十章 質問と答 より>
(インドの仏教で発展した哲学学派「毘婆沙師(ヴァイヴバーシカ)」「経量部(サウトラーンティカ)」「瑜伽行派(ヨーガチャーラ)」の各立場でのチッタへのアプローチの説明を、要約します)この考え方で、実在論者の立場を式にすると【x=x+n】で、nで外的実在を表す。
でもこの式は n=0 でないとナンセンスな等式なので、n(外的実在)なんて曖昧なものだという。
ということが説明されているのですが、こういう説明ってなかなかない。どこかに認識のリアリティーを置きたい人間の性を、内から外からどうとらえたかの違いなのですが、こうして見ると、毘婆沙師は式的にはサーンキャに近い二元論に見えます。
この部分からの流れで、サーンキャ哲学の「なんかそこはヘンでしょう」というところへのツッコミが入るのですが(このツッコミがシビれる)、このツッコミについては別の日に紹介します。
H・V・ギュンター博士は、学びへの注意点も語ってくれます。
<14ページ 第一章 タントラとは? より>(H・V・ギュンター博士執筆のパート)
ヒンドゥー教の伝統におけるタントラと仏教の伝統におけるタントラとを区別しなければなりません。これら二つの伝統はともにインド固有のものでして、長い時代にわたって同じ言語を用いてきました。すなわち、サンスクリット語です。けれども、いずれの伝統もその用語の特殊な使い方を定めています。ですから、ある特定の用語で一方の伝統が理解していることを、他方の伝統でも同じように理解しているとは限りません。
あたりまえのことなんだけど、これは仏教でいう○○、などの対比はとにかく長年かけていかないと、わたしはデータが整理されてこなそうです。佐保田先生の注釈を見ると、すごいなと思いつつ混乱する。ヨーガの場合、ここでパタンジャリの言う○○は、という固有のものも多いです。
チョギャム氏の「心のルドラ」の解説もよかったです。
<29ページ 第二章 基礎的な実践 より>(C・トゥルンパ氏 執筆のパート)
心のルドラとは基本的にどういうことかと言いますと、高次の精神発達の境地が得られたとすると、それは覆いがとれて現われたのではなくして、作り出されたのだと信ずることです。ランジュン・ドルチェはカギュ派の伝統の偉大な指導者でありますが、彼は『ヘーヴァジュラ・タントラ』の注釈において、仏性が心的努力なり精神的鍛錬によって作り出すことが出来ると信じることこそ究極の物質主義であると述べています。このように心理的かつ精神的な物資主義をとるのが、心のルドラです。
チョギャム氏が「タントラへの道」で強いトーンで語っていた要点そのもの。
<34ページ 第三章 タントラと心の哲学 より>(H・V・ギュンター博士執筆のパート)
(「唯識・チッタマートラ」の説明部分より)
サンスクリット語の「チッタ」(心)は、仏教の初期の時代から使われてきた意味合いとしては、多分われわれが理解しがちなように、「思考の容器」といった意味ではほとんど用いられていなくて、受け取った印象を蓄え、そして送り出すことを併せて行なう、いわば手形交換所のようなものの意味で用いられてきました。電池のようなものだと考えられていた節があります。それは充電もできるし、また充電されていれば、何らかの働きをする、そうしたものです。もし、われわれが「チッタマートラ」の概念を理解しようとすると、心の中に生じたはずの二つの機能が働いたというわけです。そこでまず、「チッタ」の概念には経験の貯蔵と送出という機能が含まれているわけですから、「チッタマートラ」という概念は「経験だけを重んじる」というふうに訳したほうが、より正確だと言えるでしょう。
smrtiも含む、ということなんですね。となると気になるのがmanasやvasanaですが、全部引用すると長くなるので、ちょっとだけまとめます。仏教のアーラヤ識にあたるものはヨーガで言うと「内なる認識・認知」という感じなのですが、仏教のヨーガチャーラ派での解説はこうです。
(本書の表現から抜粋)
- アーラヤ識:思考が主観と客観を分離していく心的傾向。
- vasana:仏教では「薫習」。アーラヤ識を機能させる原因となる"あり方"。潜在的であるところの貯蔵されたもの。
- manas:仏教でもヨガでも「意」と書かれる。それ自体がそこから真の自己として展開する原初の単位。
<以下はわたしの理解>
アーラヤ識(alaya vijnana)は、仏教の方がより具体的なはたらきを指しています。vasanaは、ヨーガの場面で読む文脈のほうが「自分で刻んだ記憶」という過去の責任やカルマのニュアンスが感じられますが、この仏教の解説のように、刻まれたものとして物質的にとらえつつ、それがアーラヤ識を動かすベクトルに影響するというとらえかたのほうがよりわかりやすいです。
manasについては、この本の中で
ヒンドゥー教徒は原初の単位を超越的な自我。マナスを経験上の自我として区別して説明しています。
とあります。「超越的な自我」は、ギーターでのクリシュナの発言からするとプルシャですが、アートマンのことでしょうか。わたしはこういうところがまだよくわかりません。
なんか今日は細かくなりすぎですね。でも、そういうことを勉強中の人が、大勢ではないけどいるようなので続けますね。
次は、チョギャム先生の講義から。
<104ページ 第八章 心象形成 より>(C・トゥルンパ氏 執筆のパート)
マハーヴァイローチャナはクリヤーヨーガという最初のタントラ乗における中心的シンボルです。クリヤーヨーガの根本的原理である清浄性、無垢性を喚起するはたらきをしますが、それは実修者の瞑想の一部として視覚心象的に具現するのです。
マハーヴァイローチャナ=大日如来です。空海さんの密教を学ぶときに重要な「クリヤーヨーガの根本的原理である清浄性(⇒理趣経へ)」と、大日如来の存在が説明されています。
この「浄化」の流れから、これまた博士の説明がたまりません。
<123ページ 第九章 秘儀伝授 より>(H・V・ギュンター博士執筆のパート)
浄化とは専門的にはさまざまなマーラ(悪魔)として知られているものに打ち勝つことを意味します。マーラとは、現代の用語で言うと、過大評価された諸観念のことです。それらはわれわれが成長していくのを妨げる死の力です。それらに打ち勝つことこそ、タントラの実習の本分なのです。
わたしは、悪魔というのは「おおげさ」になにかを表現しようとするときのバイアスの種のことではないかと思っていたのだけど、この感じにとても近い。いいことでもよくないことでも、盛ろうとする気持ちに悪魔が宿る。「Empty mind is devil's house」にも通じる教えです。
「夢の競演」って世の中にたくさんあるけれど、これはすごい。チョギャム先生が辛口なことを言わずに密教の実践の説明に徹することができるくらい、H・V・ギュンター博士が土台を鋭く掘り下げている。そしてこの本は日本語訳の精度がすばらしい。「最高のバックステージと演者による奇跡の講義の書籍化」という感じがしました。そのくらい、訳にも理解の深い筋があり、訳によって価値の高められた良書でした。
★チョギャム・トゥルンパ氏の本の紹介は「こちらの本棚」にまとめてあります。