うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

タントラ ― 狂気の智慧 チョギャム・トゥルンパ 著


タントラへの道」の姉妹本にあたる一冊。値上がり傾向で入手困難な本のようなので、多めに引用紹介します。
この本では「小乗仏教」「大乗仏教」「金剛乗(チベット密教)」の定義が何度か語られ、それぞれが方法の違いではなく、串刺しの段階・プロセスとして説明されています。この構造解説の、数学的詩人ぷりが相変わらずすごい。
特に小乗(ヒーナヤーナ)について語られている以下のフレーズが心に残りました。

  • 小乗とは、スピードが出ず、横道へそれることのない、いるべき所にいる乗り物のことである。(P19)
  • 小乗の単純さは、大乗の輝きやタントラのめくるめく光彩を味わう基礎になる。だから天について語るよりもまず地に関わり、私たちの基本的な悩みと取り組んでゆくことだ。(P21)
  • 大乗的なアプローチの思いやりと、金剛乗的なアプローチの勇気という二つの要素を持つ小乗に立脚した帰依、そこから始めねばならない。(P188)

チョギャム氏の六道(天上界、阿修羅界、人間界、畜生界、餓鬼界、地獄界)の説明を追っていくと、最近のクレーム社会は阿修羅界V.S.人間界の構図だわーという感じがしておもしろかった。客が阿修羅界モードで接客側は人間界モードなのだけど、うっかりユーモアを書いて人間界から畜生界へ落ちると、もともと畜生界の頑固さを武器として持ち合わせている阿修羅に負けてしまう。
それぞれの説明が実に面白いのだけど、厳選して畜生界の説明から引用紹介します。

<59ページ 愚かさ より>
動物的スタイルの本質は、極度の正直さ、誠実さ、真面目さをもって自分の欲望を満たそうとすることである。伝統的には、この直接的で卑しい世界への関わり方は、豚によって象徴されている。豚は右も左も見向きもせず、鼻をクンクン鳴らして鼻づらの前に出されたものは何でもたいらげる。果てしなく食べ続け、どんな意味でも選ぶことをしない ── なんとも誠実な豚。

緊張や自意識や抑圧感を柔らげるためのユーモアは畜生界のユーモアで、ユーモアの究極的な意味である「生の状況の全き馬鹿馬鹿しさと自由自在に関わる」こととは別物だと定義されています。先日の「ユダヤ人ジョーク」の内容を思い出して、この指摘の深さをしみじみ感じました。


八正道の説明の中にロゴスが登場する展開も、鮮やか。

<131ページ 八正道 より>
 <八正道>の第三局面は<正しい発音(正語)>。サンスクリット語はヴァチュ vac であり、<発声><言葉>あるいは<ロゴス>を意味する。「これはこうだと思います」ではなく、「それはこうです」と言えるコミュニケーション、すなわち完全なコミュニケーションのことだ。

この一つ前の局面の説明に「正しい意図は、あるがまま以外のどんなものにも引っぱられることがない。人生は美しいかもしれない、苦しいかもしれないといった観念に惑わされず、また人生に対して用心深くなることもない。」という流れがあります。
意図へのフォーカスの障害になる迷妄を、とてもわかりやすい話の流れで展開されています。つい言葉を濁そうとするときにつかまえる迷妄です。


<18ページ 幻想と現実 より>
つまり瞑想とは、心の内なる神経症を掻き出してそれを修行の一部として利用してゆく道のことだ。神経症を投げ捨てるのではなく、肥料のように自分の庭に撒くのだ。それは私たちの豊穣さをともにになうものになってゆくのである。

厳しさの本質を説きながら登場する、庭の表現のやわらかさ。同じようなやさしさのある表現を続けて引用します。


<140ページ 菩薩の誓願 より>
自分の中の隠れた願望や恐怖、軽薄さや神経症に出会うきまりの悪さに直面することはとてもむずかしい。それは本当に雑然とした世界なのだ。だが同時に、きわめて豊かなディスプレイでもある。太陽とつきあうつもりなら、それをおおい隠している雲ともつきあわねばならないというのがその底にある発想である。

とてもサーンキャ・ヨーガな解説。チョギャム氏の説明では自己の連続性はマーヤーであるとし、かつ潜在意識の傾向やそれに対する弁証法的思考パターンすらも「カタログにできるようなもの」というスタンスで実に淡々としている。「タントラへの道」もそうだったけど、「五蘊」と「六道」の解説はこの人にまさる人がいただろうか、というくらいの鋭さ。


<43ページ 宇宙的冗談 より>
 意識は、感情と不規則な思考パターンからなっており、それらが混ざり合って、私たちの心を占めているそれぞれ異なった幻想世界の形をつくり出しているのだ。(中略)感情は、エゴのハイライトであり、エゴ軍団の司令官である。意識下の思考や白昼夢やその他の思考が、ここの感情をつないでゆく。

これに対し、何をしたらよいかというと、後に「哲学的色づけをせず、単純かつ直接的に自分の感情や心の中のゴシップに取り組むことだ(P69)」という解説が登場します。この「哲学的色づけ」「心の中のゴシップ」という表現が実に鋭く、自分はいかに下世話な感情に頭のよさそうな説明をくっつけようとしているか! ということに気づく。
誰かが哲学的な色づけをされたゴシップの攻撃を受けている、という場面を見るのもまたつらいものだが、「忍耐」の説明としてこんなことが語られていました。


<132ページ 忍耐 より>
 忍耐とは、誰かが暇つぶしにあなたを拷問するのを受け入れ、その苦しみに耐えるという意味ではない。菩薩なら拷問する人を叩きのめし、自分を防御する。それが常識的な健全さだ。(中略)彼は(菩薩のこと)世間的な道徳観や馬鹿げた慈悲心でがんじならめになっていない。怖れることなく征服されるべきものを征服し、破壊されるべきものを破壊し、歓迎されるべきものを歓迎するのである。

暇つぶしの拷問を受け入れてしまう場面に見慣れていくと、人の判断はどういう傾向に流れていくのだろう。そうならないのが菩薩であるという、全方位型の忍耐論。



エゴについては、いくつかの項目で語られます。そしてそれはエゴとの付き合い方と金剛乗(ヴァジラヤーナ)のアプローチの説明に帰結するのだけど、なかでもこの説明にはシビれました。

<201ページ タントラ より>
 攻撃性、熱情、無知というエゴの戦略を超越し、そのエネルギーと完全に一つにならなければならない。取り除こうとか破壊しようとするのではなく、攻撃性、熱情、無知の持っている根源的な性質を変成してゆく。これが金剛乗のアプローチであり、タントラあるいはヨーガの道である。

この「根源的な性質を変成してゆく」は、パタンジャリの「未来の苦は、回避することができる(2章16節)」への回答のよう。



金剛乗のアプローチは、ヨーガの聖典では読みきれなかったことを次々につまびらかにしていくような内容でドキドキしますが、サーンキヤやハタ・ヨーガのタントラに近い要素が多い中にも、ヴェーダーンタな思想もある。

<93ページ 二元的な障害 より>
 誰も真にあるがままの世界を見ない。何かを知覚しそれから眺めるというのがほとんどだ。この場合の眺めるというのは、名前をつけたり関連づけたりすることである。見るということはものごとをあるがままに受け容れることである。それに対し、眺めるというのは自分の安全の確認、つまり自分と世界との関係を脅かされないように無駄な努力をすることだ。自分を守るためにものごとを類別したり名づけたりし、どのように全体が収まるか、その相互関係を確かめるために相対的な用語を活用する。だがそのような安心感は束の間の幸せであり、はかない慰めでしかない。

とてもヴェーダーンタな解説。叶恭子さんのヨーガとの共通性がわかりやすいところ。



グルと弟子の関係についての記述も、しびれる。

<184ページ 関わり合い より>
近づきすぎると火傷を負い、離れすぎると暖を取れない。適当な距離を保たねばならないのだ。度を越えて接近するのは、ある種の承認を得たいからである。
その承認とは、自分の神経症は根拠のはっきりした深刻なことがらなので、グルと弟子の精神的合一に関する契約の一部に含まれてしかるべきだと主張しているのである。しかしそういった契約は成立しない。

これまで指導者に近づきすぎて最終的に離れていくことになったヨガ仲間を何人も見ていて、「わたしがあの人をあそこまで(優れたグルであるという状態に)仕立てた」という発言にまで発展していく状況も見たことがある。後者は「根拠のはっきりした深刻なことがら」が反転したパターンなのだろうけど、その「深刻なことがら」はとても耳障りのよい言葉に変換される。きれいごとほど怖いものはない。



毎度ながらこの著者さんの本を読むとグッタリするのだけど、それによって憑き物が落ちたような、そんな感覚になります。
日はまた昇る。毎日昇ってる。でも光を感じられないこともある。そんなときは、シンプルな自問自答や自分を正しく追い込んでいく技術に助けられます。世の中に心のはたらきの情報は多いけど、この真実ばかりは自分の心の目で取りにいかなければわからない。見るしかない。チョギャム氏のメッセージはいつも全方位っぷりがすごくて、ちゃんと追い詰めてくれます。

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★このほかチョギャム・トゥルンパ氏の本への感想は、こちらの本棚にまとめてあります。