うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

五つのスカンダ「五蘊」(「タントラへの道」より)


タントラへの道」にあった内容を過去に何度か紹介しましたが、ひとつ残していたことがありました。
「エゴの発達」の章に、般若心経にも出てくる「五蘊」の説明があります。これが、自分が自分に課す「枠」として説明されています。「あるがまま」のむずかしさがどんどんひも解かれていく。ひとつの授業のようなまとまりです。
(写真の猿は、monkey mindのイメージです)


<164ページ「エゴの発達」より>
有情としての私たちは、すばらしい素性をそなえている。その素性は格別輝きもせず、平穏でも知性的でもないかもしれない。しかし、それは耕すに足る良質な土壌であり、何でも植えることができる。したがってこの問題に取り組むとき、私たちは、自分のエゴの心理を責めたり、取り除こうと試みる必要はない。ただそれを知り、あるがままに見なければならない。実際、エゴを知ることこそ仏教の基礎だと言ってもよい。それではエゴがどのように育ってゆくのかを見ることにしよう。

チョギャム師にしては珍しく、わりとやさしめな語りから入る。



<つづき>
 基本的には、ただ開かれた空間、根底的な基盤がある ── それが真にあるがままの私たちだ。エゴが生まれる以前の最も根底的な心の状態は、豊かな広がりをもった、根本的な開放、根本的な自由であり、いまも以前も、その広がりはつねに私たちの内にあった。例えば日常の生活や思考のパターンを考えてみよう。私たちがある対象を目にするとき、最初の瞬間には突然その対処が目にはいるだけで、それに関する論理も概念化しようとする作用もない。ただ開かれた基盤に対象が知覚されるだけだ。ところが次の瞬間、私たちはパニックに襲われ、あわてて対象に何かをつけ加えようとする。その対象の名前を見いだすか、それを位置づけ分類するための整理箱を見つけようとするのだ。そこから、おもむろに事態が発展する。

こういうのは、すこしずつスローモーションで見えるようなものかもしれません。もしくは、自分の整理箱のパターン(好み)が固定化されてくるのかもしれません。わたしは、そんなふうに感じます。



<つづき>
 その発展は確かな実体としての形をもってはいない。むしろ、それは幻想であり、<自己(セルフ)>または<エゴ>に対する誤った信仰なのだ。混乱した心は、それ自身をつねに継続的で確かな実体と見なそうとする。しかしそれはただ、さまざまな傾向やできごとのコレクションにすぎないのだ。仏教用語ではそのコレクションを五つのスカンダ=五蘊(蘊とは集まりの意)と呼ぶ。


五蘊については読むたびに「おもしろ迷路」にハマってしまうのだけど、チョギャムさんらしい表現を抜き出すと)

  • 第一スカンダ:色蘊……空間と自分が存在する、という枠を自分で作る。その中で我を忘れる。
  • 第二スカンダ:受蘊……手を伸ばして「他」の肌ざわりを探る。自分の存在を自分に保証し、自分の無知を保護するために防御する。
  • 第三スカンダ:想蘊……関わりを持つために情報を受け取る。そして反応する。
  • 第四スカンダ:行蘊……自分を肯定的な状況に置こうとする。知力への転換。
  • 第五スカンダ:識蘊…融合が起こって、感情になる。第二スカンダの直感的知性と、第三スカンダのエネルギーと、第四スカンダの知力への転換が結合して思考と感情を生み出す。

ヨーガ視点(数論)で読むと、五から一枚一枚脱いでいくとプルシャになりそう。
「エゴが生まれる以前の心の状態」を

  • 「自由」とするのが仏教
  • 「純粋」とするのがヨーガ(サーンキャ)。
  • それはさておきすべて「マーヤ」だとするのがヴェーダーンタ
  • それはさておき「オレに棚上げしていいから、まあ頑張れや」とするのがイスラーム

チョギャム師の本を読むと、仏教を軸にいろいろな思想がこんなふうに見えてくる。


「それを位置づけ分類するための整理箱を見つけよう」としているわけではなかったのに、分類されはじめるような。チョギャム師は仏教のことを語っているけどこれは実は数学なのではないか。そんな感覚に陥ります。



★おまけ:チョギャム師の本を紹介したリンク集(本棚)はこちら


タントラへの道―精神の物質主義を断ち切って
チョギャム・トゥルンパ
めるくまーる