うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

トリャンバカム・ヨーガ・センターの「バガヴァッド・ギーター勉強会」


トリャンバカム・ヨーガ・センター」の「バガヴァッド・ギーター勉強会」に参加してきました。
きのう溝の口・沖道ヨガに参加したら、そこで読者さんと意気投合しまして、毎月1回開催されるギーターの勉強会が翌日あると聞き、わたしも参加してきました。




会場は狛江中央公民館(市民センター)で、朝10時〜12時まで。今日は6章と7章でした。
講師の早野智子先生は、第一印象で「原由子だっ!」と思ったのですが、授業の前に座ったまま行うヨーガニドラ風ボディスキャンの誘導声が抜群に原由子的な癒やしヴォイスで、うっかり「鎌倉物語」が脳内BGMで流れ出してしまいました。それはなんとか静止したのですが、途中まで
「いまはただ眉間の一点に意識を集めて(って原由子が。いやちがう。眉間に集中せねば)」という具合で、行ったり来たりしてしまいました。


授業は6章と7章の意味を、楽しく脱線しながら解説。6章11節からしばらく不動産屋みたいな内容になる箇所について、ハタ・ヨーガ・プラディー・ピカーの1章12句節のもっとすごい不動産屋っぷりを紹介しつつ展開するところなどは新鮮な変化球でした。
ギーターや古典のいろいろな人の解説を聞くのが好きなのですが、早野先生はプラクリティを「可能性」と訳していて、もちろん他の場面では他の言葉になるのだろうと思うのだけど、その背景として、別の箇所の説明に「なにかをやろうと準備したり自分をモチベートすることは、モーハがマーヤであることを理解したうえでしているのであれば、いいこと」というお話があって、この2つの解説で、先生の解釈の包容力がじんわりと伝わってきました。
歌に喩えると「鎌倉物語」のような(しつこい)。でもほんとうに人柄というのは、ものごとの捉えかたとアウトプットに全体感があるみたいです。



途中で親鸞の話が出てきて前のめりになったり、「自然は種の持っている性質を助けているだけ」の話のときは野口先生の本の中のお話をきいているようでこれまた前のめりになり(仏陀の説法からの引用だったそうです)、あっという間の2時間でした。


「7章はオレオレな章」というイメージで、これまでフォーカスして読むことがなかったのですが

地、水、火、風、虚空、意(マナス・思考器官)、思惟機能(ブッディ)、自我意識(アハンカーラ)。以上、私の本性(プラクリティ・物質的原理)は八種に分かれている。(4)


これは低次のものである。だが私にはそれとは別の、生命(ジーヴァ・霊我)である高次の本性(プラクリティ・精神的原理)があることを知れ。それにより世界は維持されている。(5)

と、クリシュナおじたんは2章で「以上、サーンキヤ(理論)における知性(ブッディ)が説かれた。(39)」といってさっさと練習の話にすすめたがっていたわりには、ここで丁寧に分解したサーンキヤを語っていることにあらためて気づきました。まさに昨日の新聞で読んだ真宗のお坊さんのお話とかぶる。
ちなみにこのあと15章の16と17でこれでもかっ! というくらいのオレオレっぷりが発揮され、深夜の通販のしつこさに似たガッカリ感があるんですけどね(笑)。「 そこまでいわれたら、なんだか欲しくなくなって来た〜」って言わないアルジュナあってのギーターですよまったく。



「瞑想の6章に参加できてよかったです。つぎは10章が楽しみだなー。あーあ、それにしても2章だけは参加したかったなぁ。スター・ウォーズの章」というわたしに、先生も「2章はね〜。もうあれだけでいいわってくらいよね。ふふふ」とかわいらしく笑う。
きょう知り合った他の受講者さんたちは、わたしのようなノリの人をみたのが珍しかったようで、学びのモチベーションがちょっとおかしな角度にアップしたようでした。



本は、これがあればオッケーです。