うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

イラッときたら、サーンキヤ

ある日のこと。漱石グルジの小説を愛する人たちとの談話の中で、カントの哲学を愛好している人のなにげないひと言に、サーンキャ哲学との共通点を感じました。

最近の日本語にも、主体の責任を負わない表現が増えてきましたね。「イライラする」も「イラッとくる」になったり。

キターーー。これだわーーー。と思いました。



わたしは、日本人は外国人よりもサーンキヤがいけるクチな国民性を持っていると思っています。
「胸がわさわさする」「イライラする」「どんよりする」「スッキリする」など、ドーシャをうまく言うもんだわねぇ、と思う表現が多い。これは、日本語のアドバンテージじゃないかと思う。


主体性の在りかたの微妙な違いに注目してください。



イラッと(ラジャスが昇って)+ 来る んです。わたしのところに。
わたしが怒る前に、あっちから来たかのようなスタンスです。
わたしはいつだって純粋なの。あっちから来たのを「観た」のよ。というのが、基本的なサーンキヤの視点です。
社会の中でこれを採用するとちょっとイタイ人になっちゃうというか、まあできるだけ関わりたくない人です。今だったらたいてい「上から目線」っていわれます(笑)。




イライラする、になると、ちょっとだけプルシャが主体性を負っています。ほどよく現世に調和するサーンキヤってところでしょうか。
わたしは「イラッとくる」という表現を聞いたときに、これはおもしろい! と思いましたが、サーンキヤが究極ゆき過ぎた日本語は「おまえは何さまだ」という印象を与えることに気がつきました。「超プルシャ」ってやつです。これは、バガヴァッド・ギーターではクリシュナの存在とされ、「高次のプルシャ」と言われています。



「人はなぜ同じものを見たり、同じ境遇にいても感じ方が違うのか」という問いには、サーンキヤのほうが説明がしやすいです。夏目漱石グルジは、グナを「癪(しゃく・rajas)」「鬱(うつ・tamas)」という語で表現したり、
三四郎」という小説には主人公が「池の周りを散歩する」ことでドーシャをコントロールする場面が出てくるのですが、

三四郎は癇癪を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲を二へんばかり回って下宿へ帰った。

ラジャスを「癪(しゃく)」とか「癇癪(かんしゃく)」と表現することが多い。これは、余剰エネルギーを燃やして家路につく場面。


その日はなんとなく気が鬱して、おもしろくなかったので、池の周囲を回ることは見合わせて家へ帰った。

タマスは鬱。シンプルね。
上記はほんの一例です。他の小説でも「癪」と「鬱」を検索(オンライン化されているので検索できます)してその箇所を読んでみるとおもしろいですよ。「こころ」では「瞑想 / 冥想」も書き分けられています(参考)。




また話が夏目漱石方面へいってしまったわ!
もっと日常的な感覚の話をします。
これは女性にしかわからない例ですが、「まだ生理は来ていないし、もう少し先のはずだと思っていてもなんか妙にレーズンチョコが食べたくて、めずらしくコンビニで買って食べたりなんかしたらやっぱり生理が来てた」とか、そういうのはサーンキヤ的。生理が「来た」っていう表現自体が(笑)。
なので、ヨーガのインド思想といったらいまはヴェーダーンタが主流ですが、スピリチュアルでイタイ人にならない程度に、しんどいときは黙ってサーンキヤを採用しておくくらいが、「すてきなヨギ」の落としどころって感じじゃないかと思います。サーンキヤ思想って、言葉にするとちょっと寒いのでね。
社会でやっていくうえでは、身体観としてはサーンキヤ・社会観としてはヴェーダーンタを。ってかんじがよいと思います。