うちこのヨガ日記

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バガヴァッド・ギーターの世界 ― ヒンドゥー教の救済 上村勝彦 著


年末年始にゆっくり読もうと思っていた本なのだけど、読み始めたら思いのほかスルスル進む。対談でもないのに口語調で親しみやすいなぁと思っていたら、この本は上村勝彦さんが1995年4月〜9月にNHKラジオ第二放送「文化セミナー・心の探求」で「古代インドの宗教 ── ギーターの救済」を担当したときのガイドブックをもとにして出版されたそうです。
すでにバガヴァッド・ギーターを2回読んだことがある人には、ふむふむという感じで楽しく読めると思います。「インドのダブル・スタンダードな感じがどうにも迷路」という、ギーター読書にありがちな "つまずきポイント" も、以下のようにインドの社会通念と重ねた解説があります。

例えば、目は美しい形に執着する。耳は美しい音に執着する。これは人間として当然ですが、仏教やヒンドゥー教聖典では、そういう美しいものに執着するなと教えます。しかしヒンドゥー教一般から見ると、そういう心地よい対象を追求するのは決して悪いことではありません。例えば『カーマ・スートラ』という文献などでは、そういう心地よいものを追求せよと教えております。ただ宗教的な諸文献、例えば『ギーター』では、追求してもよい場合もあるがそれに執着するな、と示唆しています(上村訳『バガヴァッド・ギーター』四・二六参照)。
(58ページ 第3章・平等の境地 知性が確立した人 より)

このように、インドの歴史や社会背景とあわせて説明がされています。



ギーターのなかで唯一、「これは!」というイベントが起こる第11章の「そこで呼ばれて飛び出てジャジャジャジ〜ャンって出てきちゃうのは、ちょいとサービス精神がゆきすぎではありませんかクリシュナ様」とつっこまずにはいられない件についても、以下のように語られています。

 やはり宗教にはこういう要素があります。偉大な人物も、超人的な能力を発揮しないと、なかなか信じられないものです。信者でない人から見ますと、こういうことは荒唐無稽な話のように思われます。しかし、多くの信者を集めるためには、このような超能力も必要とされるのです。
(187ページ 第14章・カーラ(時間)の恐怖 最高神クリシュナの姿 より)

あっさり(笑)。あっさりすぎて、おもしろい…。



上村勝彦訳のバガヴァッド・ギーターはいくつか「これは、すごくうまい…」という訳があって、わたしはとくに4章22節で使う「たまたま」という言葉のチョイスに感動したのですが、言葉についてもたくさん語られています。

(7章17節の訳について)
 この「信愛」と訳した「バクティ」は、「愛する」とか、「分ける」とか、「与(あずか)る」という意味の動詞語根「バジュ」から派生したことばです。「愛」と「信仰」とを意味することから、しばしば「信愛」と訳されます。しかし語源的には「〔席などを〕分かちあう」、「一緒になる」というような意味が可能で、そうすると「結合」を意味するヨーガとも関係があることばだと思われます。
 ここで注目すべきは、「知識ある人」とは、クリシュナに自己を結びつけ、ひたむきなバクティを抱く人であるということです。『ギーター』の最後の第十八章でも明らかになるように、真の知識は最高のバクティと同一なのです。
(141ページ 第10章・信仰者の種類 最高の信仰 より)

後の第十八章でもというのは、18章20〜22節です。



ほかにも、苦心の解釈について吐露されている場面もあって、以下などはとても興味深い箇所です。以下はここだけ読んでもわからないと思うので岩波版ギーターを読んでいる人向けの引用です。

(16章8・9節の訳について)
 ここで、「相互関係によって生じないものが別にあるはずはない」というのは苦心の解釈です。その他いろいろな解釈が可能です。阿修羅的な人々は無神論者であり、普遍的な真実や絶対者や主宰神(最高神)の存在を認めないで、すべては相互関係によって生ずるという、と解しました。もしこの解釈が正しければ、主宰神などを認めず、「縁起」のみを認める仏教徒を思わせるような説です。

(中略)

 ラーマヌージャという有名な哲学者は、「相互関係」とは、ここでは特に男女関係をさす、というユニークな註釈をしています。ですから、愛欲を代表とする欲望(カーマ)が世界の原因であると解釈します。
(236ページ 第18章・阿修羅的な人々 無神論者たち より)

解釈の多様性を語られています。ラーマヌージャ、おもしろいなぁ。



ほかにもすばらしくわかりやすい解説がいくつもありますが、厳選してひとつ紹介します。カルマ・ヨーガと輪廻について語られている、以下。

 自己が普遍化するとは、個性がなくなることです。一般に、ヨーロッパの考え方では、個性があったほうがよいとされますが、ヒンドゥー教や仏教の考え方では、個性がなくなったほうがよいとされます。個性があるうちは、生まれ変わる。輪廻を続ける。古代インドでは、輪廻は苦しみと考えられてきました。何度も何度も苦しみを繰り返さなければならない。その輪廻から脱すること、抜け出ることが解脱です。いろいろな行為をしますと、その結果に束縛される。そして真実の自己は汚されて個別化して輪廻するのです。
(93ページ 第6章・行為の放擲と行為のヨーガ 自己を清める より)

5章3節を引用しつつ、説明が展開されています。

この本を読むと、ギーターの訳は何箇所も解釈の選択を迫られるところがあって、訳者は大変だよなぁと思いつつ、註釈にある「こっちの道を選んだよね」ってのを読み比べるのもまた興味深かったりして、またギーターを開きたくなります。


★おまけ:バガヴァッド・ギーターは過去に読んださまざまな訳本・アプリをまとめた「本棚リンク集」があります。いまのあなたにグッときそうな一冊を見つけてください。