うちこのヨガ日記

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仏典のことば(第三部:理想社会をめざして ─ 人生の指針) 中村元 著

経済活動の意義」「政治に対する批判」に続いて、きょうは最終部「理想社会をめざして」の紹介です。
「ことば」について考えるきっかけや、仏教雑学コンテンツの多い章でした。仏教の本を読んでいると、おのずとサンスクリット語をばんばんインプットされる。サンスクリット語と漢語の仏語は、関連付けて覚ことで日本語で使う漢字の感覚がより生っぽく感じられるようになる。おもしろいです。

<199ページ 宗教の本質 より>
「わたくしは身体で読もう。ことばを読むことになんの意義があろうか。治療法を読むだけならば、病める人にとってなんの役に立とうか」
(『さとりへの実践入門』菩薩行経に相当)

これは、シャーンティ・デーヴァ(寂天)という、七世紀の仏教思想家のことば。身体で読もう。

<203ページ 修行者の理想 より>
(『テーラ・ガーター』の解説より)
 願わくは万人の友でありたい ── これが仏教の修行者の理想でした。その立場に立つと、旧来の階級的差別は無意味なものとなるのみならず、民族の差とか国境の差を超えることになるのです。こういう理想を共にしていた修行者たちのつどいは「四方の集い」と呼ばれました。かれらは、四方をわが家となす人びとです。
 この「四方」という理想をパーリ語ではチャートゥッディッサといい、その発音を写して「招提(しょうだい)」と申します。奈良に「唐招提寺」というお寺がありますが、これはチャートゥッディッサという音を写したので、このコスモポリタリズムに由来しているわけです。
 四方の人という理想を端的に一身に具現した独りの典型的な人物として、婆羅門僧正のことをお伝えいたしましょう。かれはインドのバラモンの生まれで俗姓をバーラドヴァージャといい、出家してのちの名は、ボーディセーナでした。はるばる日本に渡来して、聖武天皇大仏開眼の導師をつとめた人です。


(中略)


奈良朝のインターナショナリズムを示す一事例として、かれの渡航は歴史的には非常に重要ですが、今は人びとから忘れられています。

このあと、中村先生がボーディセーナのお墓へいったエピソードが続くのですが、歴史的に重要なポイントなのに観光としてはヒキが弱いなどの理由で紹介されない場所って、多いですね。「地味ですが重要です」「重要だからこそ、地味なのかもしれません」という観光案内に出会うと、とてもありがたい。

<223ページ 真の友人とは より>
 真実の友情は、いつになっても変わらぬものです。友達のために親身になって考える、これを仏教ではマイトリーと申します。ミトラというのは友を意味し、マイトリーというのは、真実の友情という意味です。それを漢訳仏典では「慈」と訳しています。

リグ・ヴェーダに『ミトラは元来「契約」、これによって結ばれた「盟友」を意味し、約束の履行を掟とし、友情・和合を司る。』(参考)とあって、けっこう好きな神様なんだけど、『ウルヴァシーという美人を見て欲情し、精液を漏らした』(参考)という話もあっておもしろい。とにかく情が厚くて人間らしいことがビシバシ伝わってくる、「慈」。

<234ページ 自分のことばを持て より>
 盤珪禅師(正眼国師、1622 ─ 1693年)は、日本人として禅を体得したという点で注目すべき人です。かれは、従来の禅宗の教義的な、むずかしい文字をもてあそぶ有閑的・遊戯的な弊風を公然と否認して、民衆と共に道を求め、民衆にわかるように禅を説きました。かれは「舌三寸」を以って教化することを標榜していました。「舌三寸」とは、西洋的表現によれば、ロゴス(ことば)にたよることであり、いかなる人も傾聴遵奉すべき「道理」をいうのです。
 ところが、明治以降の支配階級はことさらに難しい漢語を用いるようになりました。徳川時代の支配者のほうが、まだ「平話」における単語を公に用いる割合が多かったのです。

「舌先三寸」という四字熟語をはじめて知りました。「口先だけの巧みな弁舌」という意味だそうです。

<243ページ 傲慢になるな より>
(『高僧法顕伝』の解説より)
漢人であった法顕(西紀337 ─ 422?)は六二歳の高齢にして、朋輩、道整らと長安を発し、砂漠の難路をよぎり、六年を経て、インドの旧都パータリプトラ(現在のパトナ)に達しました。その地で仏法が立派にまもられ、実践されているのを見て、道整はもはや故国に帰らず、インドに骨を埋めるという決心をしました。しかし法顕は、自分のもとめた戒律を「漢地」に伝えたいという誓願のために、親友とも別れて、故国に帰りました。


(中略)


 総じてインドでは、漢民族のことを、叙事詩マハーバーラタ』以来サンスクリット語で「チーナ」と呼び、現在のインド、ネパール、スリランカなどの諸言語では、最後の母音を落として「チーン」と発音します。つまり「秦」に由来するのです。

法顕三蔵はスリランカへも足を伸ばして、帰りは航路。60歳をすぎてからのこのパワー。しかも五世紀(玄奘三蔵は七世紀)。びっくりです。

<245ページ 傲慢になるな より>
 総じて何か新しいことを始めようとすると、必ず非難が起こります。人の口の端にのぼるような場合には、裏面では必ず悪口をいわれるものです。
「これは、昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙せる者も非難され。多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されないものはいない」
(「ダンマパダ」法句経)

これまで何度か「ダンマパダ」のなかの節を読んだことがあるのですが、かなり読むクスリ度が高い。言葉狩りや足の引っ張り合いの世の中に疲れたときのために、手元に一冊持とうかな。


この本は「仏陀のことば」ではなく「仏典のことば」。その時代時代の、ときに都合のよい解釈がどのようなものであったかというのを教えてくれます。そしてどの教えも、いまの自分への当てはめかたがある。この「当てはめる」作業をするときに、自分の潜在意識を知ることになったりします。
おもしろいですね。


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都内で仏教漫談をやることになりました。
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