うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愛欲の精神史2 密教的エロス 山折哲雄 著


まえに紹介した「愛欲の精神史1 性愛のインド」のシリーズです。
この「密教的エロス」では、空海さんを掘り下げています。空海さんて、あのエロス全開の時代の人なんだよねというスタンスを1ミリもずらさずに語り続ける内容がたまりません。
かなり「オレ的にはこう見るぞ」という説が炸裂ですが、こういう勢い、大好きです。

<性衝動を昇華する「密教的禁欲」の身体技法 より>
 いま私は、日本宗教の伝統には二つの禁欲方法が見出されるのではないかということをいった。一つはニルヴァーナ的禁欲で、いわば性欲に対する強制的な抑圧を主軸にする禁欲であった。それにたいしてもう一つは密教的禁欲で、エロスの慰撫と性欲の昇華をめざす禁欲である。私はその二つの禁欲の方法を、最澄空海という宗教的人格を通して識別してみようとしたのである。

ね。おもしろそうでしょ。



空海の思考のエロティシズム より>
 空海はたしかに、インドに発する大乗仏教の伝統のなかで生きていた。インド、中国をへて発展した密教伝統のネットワークのなかで自己の思考を鍛えあげていた。それを疑うことはできない。しかしながら、それにもかかわらず、かれはまた『源氏物語』のような作品を生み出す文化的土壌のなかで呼吸していたのである。その時代の重要な主題をなす色好みの趣向が、同じ宗教風土に花開いた密教的禁欲のエロティシズムと交感し重層することがあったとしても、すこしも不思議なことではないのである。

わたしはよく、空海さんは社会のシステムをどう見てたのかなーということに思いを馳せる。「源氏物語」の時代に、よくもこんな学問のしかたができたものだと思う一方、最澄さんについては「性神風土記」を読んだときに、「男僧侶世界、まあそういうこともあるだろうなぁ」と思った。



<"汝密教の器あり" より>
空海はたしかに顕と密を峻別し、密の至上性を主張した。しかしその「密」の中には、古い密と新しい密とがさらに厳密に分類・截断されていたということになる。

わたしははじめのころは、空海さんが教えを分類していることを、天皇や日本の仏教界のなかでの折り合いのためかと思っていました。でもさまざまな教典を読んで、あれだけさまざまなインド思想ががっつり頭に入っていた空海さんは、インド人と同じ感覚で分類していたんじゃないかと思うようになりました。




津田真一氏の論文「反密教学」を題材に語る以下の解説は読みどころ。

<『反密教学』── 反密教と反釈迦のあいだ より>
 老いてボロくずのように見棄てられて、路頭で死んでいく。それが人間の本然の姿で、理想的な死に方だという。(中略)そういう場面で強調されているのは同情も嫌悪も一切必要としない「非人情の極致」という境涯であって、それを津田は「瑜伽の宗教」といっている。

一部だけ引用しても分りにくいのだけど、ここはおもしろい部分です。
わたしはヨーガの思想は(とくにサーンキヤ・ヨーガは)、「こころのはたらき」を物質的に捉えているので「非人情」だと思うのだけど、これは夏目漱石の描く「非人情」の意識とよく似ている。なのでこんなにもハマっているわけなのですよ。




この本は、空海ファンのみならずクリシュナ・ファンにもキャーッ、となれる内容を含んでいます。

<神と信徒のホモセクシュアルな関係 より>
 私は、このインド産のクリシュナ信仰のなかに、「女性化した男とそれをとりまく女たち」というモデルの一つが典型的な形で潜在していると考える。

このあたりも、人によってはおもしろく読めるかもしれません。


このテのお話が好きな人には、エッセイっぽく読めるのでたいへんおすすめです。


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