うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

禅と日本文化 鈴木大拙 著(英語)/ 北川桃雄 翻訳(日本語)

禅と日本文化
ヨガ仲間が貸してくれました。正式名は「対訳 禅と日本文化 Zen and Japanese Culture」という本で、外国人へ禅を伝えるために書かれたものです。英語と日本語の両方をゆっくり追っているので読むのに時間がかかるのですが、第一章「禅の予備知識」と第二章「禅と美術」までを読み終えました。
英語の感覚と日本語の感覚が合わさって、理解がより感覚的になる。その鋭さにグイグイ引き込まれる。


禅については、これまでは「さわった」程度の理解でした。そんな浅さであったなかでも、そこに最も深く触れた経験は岡倉天心の「茶の本」であったのだなと、この本を読んでみて気づきました。
いくつかの単語の使い方が印象に残り、わたしのなかで少しずつ、禅の認識の整理が始まっています。


単語の使い方で印象に残ったのは、まず、「art」。18ページの「悟り」の説明に「This opened the pupil's mind to the secrets of the art.」という表現が出てくる。
これまで「art of living」という響きにはインドの教えで触れてきたのだけど、この本の解説の流れで剣道の「極意」として登場すると、よりしっくりくる。



次に、「helpless」。禅の美徳の説明に「頼りなさ」という表現が使われていました。
日本人の気質をあらわす、すごい表現があった。

<38ページより>
The Japanese are often thought not to be intellectual and philosophical, because of their general culture not being so thoroughly impregnated with intellectuality. This criticism I think has something to do with the Japanese love of asymmetry. The intellect primarily aspires for balancing while the Japanese are apt to ignore it with a strong inclination towards unbalancing.

日本人はその一般教養うに知性が十分に滲透していない故をもって、しばしば知的でなく、哲学的でないと思われている。この批評は日本人の非相称性愛好と多少関係がある、と自分は考える。知性はもともと均衡を欲するものであるが、日本人は不均衡を好む強い傾向によって、ややもすればそれを無視するのである。

ここの深さ。ここを読みながら、頭の中で図を描いていました。後日書きます。



ここまでのひとつの読みどころとして「貧困の信仰」があります。この点に興味のある人は、自身の目で、心で読んでみてください。いつか読もうと思っている人の本のなかで、ずっとリストアップされていた鈴木大拙師。すっかり、自分の心の奥底にあるDNAのようなものを徹底分解された。
禅を信仰する外国人とはスタート地点の違う、「受け継がれた血の記憶力」のようなものが湧き出てくる。かゆい部分の周りの皮膚をやさしく掻かれ続けているうちに「ああもう全身かゆい。本当はいつもかゆかったのに、気づいてななかっただけかも。かゆいかゆい人間なんだ」という気分になってくる。
みなさんも一緒にかゆくなってください。