うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「精神性」への指摘(「タントラへの道」より)

タントラへの道」にあった内容を過去に何度か紹介してきましたが、今日は「精神性」というものへの指摘について、いくつかの章にまたがる言及の中でひもづけて咀嚼したことがあったので紹介します。
ヨーガを通じて身体だけでなく心も修練しているのだとか、精神修行とか、インド哲学を学んでいるって? 学ぶってなにさ。とか、そういうことについてバッサリ斬ってくださいます。「■なになに」は各章の名称です。

■精神の物質主義

<28ページ>
私たちは、あらゆる疑問に対して自分を正当化する答を見いだそうとする。混乱を免れない人生のあらゆる側面を、自分の知能的設計図にはめこんで自分を安心させようとするのだ。そのための努力はあまりにも真剣で厳粛でもっともらしく、疑いをさしはさむ余地がない。私たちは精神的アドバイザーの<高潔さ>をつねに信じてやまないのだ。
 自分を正当化することに利用するものは何であろうとかまわない……聖典智慧、図表化、数学計算、秘儀、正統派宗教、深層心理学、その他のさまざまな方法。自分がある修行をするべきか否かを決めようとするとき、つまり精神的な道を評価しはじめたとき、私たちはすでに、自分の修行や知恵をこれとあれとの対立という視点から分類していることになる。これこそ精神の物質主義であり、われらが精神的アドバイザーの唱える偽りの精神性なのだ。


(中略)


 あらゆる精神修行の主要なポイントは、エゴの官僚制度からの脱出にあることを理解する必要がある。それは知識、宗教、道徳、分別、慰めなど何であれ、自分が求めるものについてのより高い、より精神的な、より超越した翻訳をたえまなく探し求めるエゴの欲望から抜け出すことだ。私たちは、精神の物質主義から抜け出さなければならない。もし私たちが精神の物質主義から抜け出すのではなく、実際にはそれを修めているのだとしたら、最後に私たちが見いだすのは精神の道の巨大なコレクションの虜になった自分の姿に違いない。精神的なコレクションは、非常に価値あるものに思われる。自分は多くを学んだ。西洋の哲学や東洋の哲学を修め、ヨーガもやり、おそらく一ダースにものぼる師たちのもとで修行した。多くを学び、自分の目的を達した。おびただしい量の知恵を貯めることができたと信じている。しかし、これだけのことを成し遂げたにもかかわらず、なお放棄すべきものがあるとは不可解だ! なぜこんなことがありえよう? 不可能だ! しかし、残念ながらそれは事実なのだ。知恵と体験の膨大なコレクションは、エゴの展示品の一部であり、その虚飾を好む性質の一面にすぎない。私たちは、世間に向かってこれらのコレクションを展示することによって、自分が「精神的な」人間として平穏無事に存在していることを自分に証明しようとするのだ。

「自分を正当化すること」というのは日々の振り返りのきっかけになる材料で(先日書いた「不謹慎」も同じようなこと)、これを『自分が「精神的な」人間として平穏無事に存在していることを自分に証明しようとする』行為であるという説明にいたる流れは、もうサパァーーーッとよく研がれた刀で斬られたような気持ちになる。この日記なんて、まさに「エゴの展示品」の象徴のようなものだから。

<31ページ>
 精神性を学び、瞑想修行をするためにここに集まってきたあなた方は、金銭的な欲や得を離れた純粋な探求心と向上心をもってやって来たことを知っているからこそ、私はとくにこのことを強調したい。しかし、知恵を骨董品に見たて、収集すべき(古い智慧)と見なすならば、それは誤った道だ。
 師弟の系譜をたどってみても、智恵は骨董品のように手渡されはしなかった。そうではなく、師が教えの真理を体験し、それをインスピレーションとして弟子に伝える。そのインスピレーションが弟子を目覚めさせる ── かつて、師の師が彼を目覚めさせたように。弟子はそれをまた自分の弟子に伝え、教えは伝達される。教えは、つねに今日的だ。<古い智慧>や伝説ではない。それは情報として伝えれるものでもなく、おじいさんが孫に話す昔話のように語り継がれるものでもない。そのようなわけにはいかない。教えとは、リアルな体験なのだ。
 チベットの経典にこんな言葉がある。
 「智恵は純金のように焼かれ、たたかれ、そして鍛えられるべきもの。そうしてこそ、飾りとして身につけることができる。」
 つまり、師から授けられた精神的な教えは無批判に受け入れられるのでなく、焼かれ、たたかれ、鍛えられて、はじめてその純金の光が輝き出す。そのとき、あなたは好きなデザインの装飾具を造り、身に飾ることができる。そのように、ダルマ(法、教え)は年齢を問わずすべての人に適用される。

「師から授けられた精神的な教えは無批判に受け入れられるのではない」というのは、「いいからやれ」を「どう心得てやるか」という練りこみと解釈したのだけど、こういうのはヨガにかかわらず日々のなにげないコミュニケーションにもいえる。自分しだいなんですよね。


■入門

<80ページ>
 精神性とは、非常に刺激的で、多彩なものだと決めている人もいるだろう。それは、エキゾティックで異質な宗教、宗派の伝統を探検するときに起こることだ。私たちは、種類の違う精神性を取り入れ、それらしい態度をとり、声の調子、食べ物の習慣から、ふるまい全般にわたって変えようとする。しかししばらくすると、そのように精神的であろうとする意識的な試みは、あまりにもぎこちなく、見えすいていて、変わりばえがしない。そのようなふるまいのパターンが習慣になり、第二の本性になるよう志すのだが、どうしても完全には板につかない。それらの「超然とした」物腰が、自然に自分の装いの一部になることを望むだけ、私たちの心はまだ依然としてノイローゼにかかっているわけだ。私たちはいぶかりはじめる。「これこれの宗派の聖典に従ってやってみたのに、なぜこんなことになったのだろう? これは、もちろん、自分の混乱のせいに違いない。次にはいったい何をしたらいいのだ?」 経典を誠実に守ったにもかかわらず、混乱は少しもなくならない。ノイローゼと不満はなくならない。何もかも、電気の接触のようにパチッとはいかない。私たちは教えに接触しなかったのだ。

うちこ自身はあまりそこで「いぶかる」という発想にならないのだけど、これはアメリカで行われた講演だからでてきた言葉なのかな。これは、うちこにはわからない種類のノイローゼかもしれないけれど、「ぎこちなく」「見えすいて」しまうことは身に覚えがあります。


自己欺瞞

<89ページ>
 最初のうち、あなたは非常に高揚していて、すべてが美しい。とてもハイな、興奮状態が、数日の間続いているのに気づくだろう。すでに、仏陀の境地に達したようですらある。世俗的なさまざなの懸念があなたを煩わすことは一切なく、すべてが順調に運び、瞬間的な瞑想がいつも起こっている。
あなたは、グルとともにもった解放の瞬間を、継続的に体験しているのだ。これは、一般的な現象だ。この時点で精神の友とそれ以上関わり合う必要はないと考えるひともあり、そのまま精神の友から去ってしまう人も多い。東洋においてもこうした例が多かったと聞いている。

とてもアメリカっぽい。


■厳しい道

<109ページ>
 反対に、私たちは与えるよりも集めつづけてきたようだ。自分の精神的ショッピングを思い返してみて、自分が完全にそして正しく与えたこと、自己を開き、すべてをさし出したことが一度でもあっただろうか? 仮面をはぎ取り、鎧もシャツも皮膚も肉も血も、そして最後には心臓までも切り捨てたことがかつてあっただろうか? 脱ぎ捨て、開き、そしてさし出すプロセスを私たちは本当に経験しただろうか? これが基本的な問いだ。私たちは本当にゆだね、与えなければならない。大変な苦痛を味わうとしても、何かを捨てなければならないのだ。これまでに何とか築きあげてきたエゴの基礎的な構造を分解しはじめるのだ。分解し、ときほぐし、開き、そして捨てる過程こそ、学ぶということの本当のプロセスなのだ。肉に食いこんで伸びてゆく足の爪のような状態のエゴを、私たちはどれほど真剣に切り捨てようとしているだろうか? おそらく私たちはまったく何も捨てていなかったのだ。ただ集め、築きあげ、つけ加えて、エゴの構造を幾重にも重ねてきただけだ。そのような私たちにとっては厳しい道の展望は脅威でさえある。
 私たちがつねに容易で苦痛の少ない答を見つけ出そうとすることに問題がある。しかしこの種類の解決方法は精神的な道では通用しない。もともと私たちの大部分はこの道に首を突っこむべきではなかったのだ。一度この道にはいったらどんなに苦しかろうと、それに立ち向かわなければならない。
私たちは自分をさらけ出すこと、着物も皮膚も神経も心臓も脳も、すべてを脱ぎ捨てて宇宙に自分をさらけ出す意志を表明したのだ。あとには何も残らない。それは恐ろしい身をさいなむような苦痛だ。しかしそれが道のあるべき姿なのだ。

この「精神的ショッピング」のコピーの秀逸さに、うなってしまう。


■六道

<187ページ>
よく知り抜いた、安全で、閉じた世界に陶酔し、なじみのゴールに注意を集中し、迷いなく頑固な決意をもってそれを追う。このような畜生界は豚によって象徴さえる。豚は鼻先にやって来るものなら何でもかまわずむさぼり食べる。右にも左にも目を向けず、ただ一直線に突き進む。
ただそうするだけだ。巨大な泥沼を泳ぎ渡らなければならなくても、また他の障害にぶつかることになっても豚はいっこうにかまわない。ただかきわけて進み、目の前に現れるものをむさぼり食べるだけだ。

今日のまとめはたまたま途中で旅行を挟んだりした関係で今になって(昨日今日で)振り返った部分なのだけど、この振り返りの途中で裁判を傍聴する経験をしてきたり、ここ1ヶ月ぐらい仕事について考えることがあった中で「なじみのゴール」という言葉がストンとおちてきた。
仕事というのは「はたらく」ことであり、生かされている状況で発生する営みなのだけど、そこでもう一階層下って「役割」となったときにそのことを考えると、それそのものは「豚」の行為だったりする。「豚」としての「着地」や「決着」や「対処」や「クロージング」といったことが商品化され、対価が生まれている。
「豚でありながらも、どんな豚であるか」という振り返りは重要だ。個人を商品として勝負していく場合はなおさらだ。需要が発生する「クライアント」の「よく知り抜いた、安全で、閉じた世界」をかぎ分ける鼻が、豚の明暗を左右する。


ここまでメッタ斬りな口調で精神について説かれているものはなかなかない。この人の言葉を読んでいると、インドの聖者の言葉はおそろしく耳障りのよいものに感じられてくる。
でもそんなメッタ斬りのなかに、「そうなんだ。豚なんだ」と認識させてくれるものがあって、「豚の志」についてまたエゴの練りこみがはじまる。
ヨガは「精神のららぽーと」みたいな象徴的なショッピング・プレイスで、仕事上でのあれこれは、少しわかりにくいだけで、そのカオスっぷりたるや「精神のヤフオク」くらいの取引の場だ。
「それでも明日も豚として、わくわくしていこうではないか」。
そんな不思議なエネルギーが沸いてくるのでした。