うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

エゴの分解 / 物質主義の三大王(「タントラへの道」序章より)

タントラへの道
昨日紹介した本「タントラへの道」の序章にあった内容をご紹介します。
この本は、読み始めてすぐに「あなたは今、自分がこれらの言葉を読んでいると感じている。」からエゴの解説が始まります。本だけでなく講演やライブで「感覚が細かい人ほど、相手を主役にして話を進行するのがうまい」と日々思うのですが、この著者さんのそれは、キレが違う。


さっそくご紹介します。

<「序章」より>
混乱の主な原因は、自分が継続的で固定した存在だと感じることにある。思考や感情やできごとが起こるとき、それが起こっていることを意識している者がいるという感覚がある。あなたは今、自分がこれらの言葉を読んでいると感じている。この自己という感覚は、本当は継続的な束の間のできごとであるにもかかわらず、混乱した状態の心にとっては固定した継続的なものに見えるのだ。この混乱した視点をリアルなものと見なすことから、私たちはこの固定した自己を維持し、高めようとする。その自己に快楽を与え、苦しみから守ろうとするのだ。日々の体験は、私たちに自己の無常さをさらけ出す脅威をたえまなく与える。そこで私たちは、自分の真の状態を見いだすあらゆる可能性を覆い隠そうとあがくのだ。


(中略)


固定して継続的な自己という感覚を維持しようとするこのあがきこそ、エゴの行為にほかならない。


(中略)


エゴのあがきに必ずつきまという不満足、それが私たちを駆りたてて自分の行為を点検させようとする。しかし、私たちの自意識にはつねにすきま(ギャップ)があることから、一定の内観が可能になる。

まだ序章なのでまろやかな口当たりですが、この「一定の内観が可能になる」の表現は「一定の内観を異常に特別視してつかまえたがる」という行為が「固定して継続的な自己という感覚を維持しようとする」と隣り合わせにあることをも指しているんですね。


このあとの、チベット仏教でいう「三大王」の話がおもしろいです。つづきです。まずは「身の大王」。

チベット仏教では、エゴの働きを表わすのに興味深い比喩が使われる。それが「物質主義の三大王」と呼ばれる。「身の大王」「口の大王」「意の大王」がそれだ。これから私が話す三大王の話の中で、<物質主義>とか<ノイローゼ的>という言葉はエゴの働きを示している。
「身の大王」は物質的な安楽、安全そして快楽を病的に追求することを意味する。高度に組織された技術社会は、人生のなまなましい未開な側面や、予想できないさまざまな要素がもたらすいらだたしさから自分を守るためには、物質的な環境を制御すべきだという私たちの偏見の反映である。押しボタン式のエレベーター、真空パックの肉、冷暖房、水洗トイレ、葬儀、退職制度、大量生産、気象衛星、ブルトーザー、螢光灯、八時間労働、テレビ ── これらはすべて統制され、安全で先が見える快適な世界を作ろうとする試みだ。
「身の大王」は、私たちが作り出す物質的に安全な生活環境を指すのではない。むしろ、そのような生活環境を作り出したり、自然をコントロールすること私たちを駆り立てるノイローゼ的な偏見を指しているのだ。エゴの野望は、自分自身を保護し、慰め、あらゆる不快さを避けようとすることだ。だからこそ私たちは快楽や財産にしがみつき、変化を恐れ、あるいは変化を強いる。そして安全な巣や遊び場を作ろうとするのだ。

組織の人事仕事の変遷などをやんわりですが思い出してみると「安全で先が見える快適な世界を作ろうとする試み」を繰り返している。そしてその仕組みにあれこれ言う人はとっても<ノイローゼ的>だ。
友達として接している同僚の中にも、ノイローゼたちはたくさんいる。「先端にいたいけど、自分の望まない変化は嫌」というものすごいエゴの持ち主たちだ。

このくだりを読みながら、おなじく「便利教」についてあれこれ思念した。
ITは人を孤独にさせないことに寄与するだろうか。
それは、リアルに人が離れていくことに抵抗がなくなる ⇒ 物理的に孤独になれるという方程式なのではないか。映像や音声で、孤独耐性はどこまで鍛えられるか。そんな思念がぐるぐるしました。


以下もつづきです。次は、「口の大王」

「口の大王」は、世界と関わる上で知性を用いることを指す。私たちは現象世界を制御するハンドルの役割をさせるために、一連のカテゴリーを用いる。その最たるものがイデオロギーという、人生を合理化し、そして是認する観念のシステムなのだ。ナショナリズムコミュニズム実存主義キリスト教そして仏教 ── これらはすべて、私たちにアイデンティティー(自己同一性)や行動規範、そしてものごとがなぜ、どのように起こるのかという解釈を与えてくれる。
 ここでも同じように、知性を用いること自体が「口の大王」なのではない。「口の大王」とは、何であれ自分を脅かすものごと、自分の気に入らないものごとを中和し、自分に都合のよい<肯定性>をつけ加えて解釈するエゴの性癖を指している。


(中略)


私たちは、自分を脅かす疑問や不確かさや混乱のはいりこむ空白を残しておきたくないのだ。

ほんとそうね、と思います。とくにうちこは「自分を脅かす不確かさ」が苦手なんです。「中途半端な頼まれ方」が嫌なんです。
「確実にやりたいんなら一番確実なやり方をすればいい。意思のゆるい状態で相談に乗る仲でしょうか。意思決定力のないあなたとは違い、暇じゃないのだから、かんべんしてください」と思う。本人にそう伝えることもあるので、そんなときはとても驚かれます。


そして最後、「意の大王」

「意の大王」は自意識を維持しようとする心理的な傾向を示す。精神的あるいは心理的な修養を、自意識を維持したり自己を感覚することにしがみつくための方法として用いるならば、それは「意の大王」が私たちの心を支配していることだ。ドラッグ(幻覚剤)もヨーガも祈りも瞑想も恍惚境も、さまざまな精神療法も、すべてがこのように用いられる可能性をもっている。


(中略)


エゴはあらゆるものごとを、それ自身の健康の状態、つまりそれ自身の本性の立場から解釈してしまう。そしてそのようなパターンを創りえたことに大きな達成感と幸福を味わう。とうとう手ごたえのあることをやり遂げた、個性を確立したというわけだ。

「とうとう手ごたえのあることをやり遂げた、個性を確立したというわけだ」までをここまでわかりやすく解説されると、将棋で言ったら「手詰まりです(キッパリ)」の状態ですね。
そして、「私は壊れたんです」というのも個性ね。ノイローゼ同士で個性を確立しまくっているというわけです。



そしてこの後に「瞑想についての誤解」について語られている興味深い記述があったので引用します。

 瞑想に関してはこれまで数多くの誤解があった。ある人々はそれを心の恍惚境(トランス)だと見なす。ある人は心の体操だというようなトレーニングが瞑想なのだと考えている。しかし瞑想は、そのどちらでもなく、ノイローゼ的な心の状態と真っ向から取り組むことなのだ。


(中略)


瞑想の修行は<あるがままにあらしめる>こと、つまりそのパターンに調和することに関わっている。そうすることによって、私たちはそれらの要素とどのように取り組み、どのように関わったらよいのかを学ぶことができる。それらの要素を自分の望みどおり育てるためにではなく、それらが何のために存在するかを知り、そのパターンに調和していくためにこそ、それを学ばなければならない。

一連の著者さんの発言とこの記述をあわせ読むと、「あるがまま」の奥行き、粒度がぐっと違ってくる。


自己の内外を問わず、「調和」って、ものすごく大変な道のりなんですね。