父が他界して家族構成がシンプルになりました。
「家族」という画面の中心に横長に置かれていたテトリスが消えた感じ。
黒くなって30年以上、動かない塊がそこにありました。
それでももうすぐ一年になるし、今年は正月に生まれ育った土地へ行ってみたらどうだろう。なつかしさが復活したりするだろうか? なーんてことを考えて実際に行ってみたのだけど、大林宣彦的ノスタルジーがわたしの中で起こることはなく、雪国に尾道を求めた勘違いに目が覚めました。
東京はわたしをフェアな関係で受け入れてくれた場所だから好きです。
渋谷や池袋からの私鉄の景色を見て感じるなつかしみには苦しさや理不尽さのおまけも付いてくるけれど、それも含めて受け入れてくれた場所と感じます。
地方出身者の多くがそうしているように、わたしはこれまで家族に対しても、東京はハードで冷たくて住みにくい場所という前提で話すことをマナーとしてきました。いまは自分の選択について話すことができ、いくらか清々しくなりました。
20年以上ひとりで東京を本籍地にしていることも、相続放棄の手続きをきっかけに伝えることができました。こういうのは黙っていればわからないもので、言えばなんとなく角が立つというか、親しき仲でも言わなくていいタイプの情報です。
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長岡市は山の自然が美しく、海へもサクッとローカル電車で行けます。なんたって町の中心に流れる信濃川の幅が頼もしく、川がデカけりゃ花火もデカい。インドでガンジス川が小さく感じました。
食べ物の美味しさは言うまでもなく、食文化も魅力的です。フレンドのイタリアンはやさしく胃と脳をオッペケピーな状態にしてくれる随一のファスト・フードだし、越乃雪本舗大和屋のパッケージの芸術性はなかなかお目にかかれない品質です。恐ろしくハイレベルものが、駅ビル内でしれっと売られています。
わたしにとって郷土と感じられない土地に、世界に誇れるすばらしさが溢れていました。
それにしても、東京にフェアネスを感じるのはどういうわけでしょう。
自分の何を肯定したくて意識的にどんなバイアスをかけているのか。こういう感覚も時間薬が効いたら消えていくものなのか。その効用を信じて日々を生き、いつか澄んだ心の目で見ることができたらすばらしい人生じゃないだろうか。
そんなわたしは、まだ心のサングラスが手放せません。
生まれた土地で暮らし郷土愛を口にする人の語りは眩しすぎて見ていられない。
だから東京にいても食堂のテレビでNHKがついていると、ちょっとしんどい。
わたしみたいな人って、この東京にどのくらいいるのだろう。
人口動態を見ると多いはずなのだけど、そこはお口にチャックウィルソン。
東京はおもしろい人に出会える場所です。
<今週のお題「大人だから」>