うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

逢沢りく ほしよりこ 著

この半年間のうちにわたしはおもに東京、そして数週間をインド、数日間を神戸で、その土地土地に知り合いがいてそれなりになじめる場所で日々を過ごし、その間にいろいろなことを思ってきました。それは取りあげて考えるようなことではないのだけど、異様にその特性が輪郭を持つ瞬間があります。


個人の性格はどこに居てもその人。東京とインド、東京と神戸のように、同じ人に別の場所で会うこともあって、個人の性格はその人の身体のなかにあるのだけど、土地によってコミュニケーションのありようは違う。他者とのコミュニケーションは、人間同士が関係・共有する世界の価値観を表す。その土地で広く共有されているデフォルトの価値観のようなものに、なんとなく違いがある。

 

  • 東京は、クリーンであることがのぞましい。
  • 関西は、シリアスすぎないのがのぞましい。
  • インドは、清浄であることがのぞましい。

 

東京のクリーンさは、インドの清浄と同じ意味ではない。東京のクリーンは、非の打ち所のなさが是だ。
インドは、バイ菌だらけとしか思えなくても「聖」の定義で是となればガンジス河によろこんで入る。

 

東京でのぞましいとされるクリーンさは、不快なものをとり除き、できるだけ視界に入らないようにする。その対応への細やかさやそこに労を費やす献身的な態度で人格が強化されるかのようでもある。こんなにも自分のために、だれかのために頑張っているという姿勢が評価される。
ここに、小さな不幸の種がある。クリーンであろうとすることと、排他的なスタンスや他罰的な思考が直結したときに、だれかが痛むことになる。

 


だれかが実は痛んでいないかということに、関西の人はセンシティブであると思う。
この関西特有の繊細さに気づいたのはここ3年くらいでのことで、それまでは半分くらい「気合いのいるところだ」「油断するとズケズケくるから、気をつけよう」と思っていた。今は、まるで逆だ。関西はわたしにとって「甘えてはいけない場所」になっている。行くたびに、いつも密かにもう脱ぎたくてしょうがないと思っている鎧を、ちゃっかり脱がされてしまう。

 


 「あれー? 今日、来る日やったっけ?」

 


わたしが神戸へ年に一度ではなくできれば複数回行きたいと思うのは、同じ喫茶店に3回目に入ったときのマスター(=おっちゃん)のこのセリフのインパクトがすごかったというのもある。わたしが標準語だからすぐに顔を覚えられたのだろうけど、東京で半年に一度しか行かない喫茶店では、たぶん早くて四回目の入店くらいで、「定期的に、このあたりにおいでになるのですか?」なんていわれるのだろうと想像する。
こういう差を、この本はどこまでも可視化する。ここ7年の間にゆっくりと自分のなかで進んでいたパラダイム・シフトを「もうあなたそれ、だいぶ関西寄りに近づいてるから」とありありと、しかもマンガによって示されることになるなんて、思ってもいなかったな。すごいマンガだった。
自分も読んでみようと思う人は、今日はここでいったんブラウザを閉じて、続きはそのあと読んでくださると読書会のような感覚で読めて楽しいかと思います。

 

 

 (はい閉じる人、ここまで!)


 (いったん、ここまでーーー)

 

 

逢沢りく 上 (文春文庫 ほ 22-1)

逢沢りく 上 (文春文庫 ほ 22-1)

逢沢りく 下 (文春文庫 ほ 22-2)

逢沢りく 下 (文春文庫 ほ 22-2)

 

 

 (閉じる人、閉じましたかー?)

 

 (続けちゃいますよー)

 

 

 

逢沢りくは、わたしだ。と思いながら読んだのが一回目。

逢沢りくの活動範囲のイメージは、二子玉川や自由が丘。
「そういうものなんですよ」という雰囲気でとらえどころのないコンテンツを提示されて、見てもよくわからない。なんか、いいらしい。というものの連続。
「そういうものなんですから」という圧に勝つために理論武装を始めると、自分がまるでかわいそうな人と言われているかのような地獄妄想に陥る不思議な力がある。わたしは二子玉川ライズにいるだけで漠然とすぐに落ち込むことができる。そんなニコタマ的家庭で、家庭内での「そういうものなんですよ」へのツッコミを言語化できずにいる主人公に思いっきり感情移入した。
シャレた料理と味がうまい料理と楽しい食事は違うものだということを、身体ではわかっているのに言語化できない主人公を見ていて喉が筋肉痛になった。中学生が「もう決まったことなの」と親に言われる左遷的状況というのは、そこに生まれてきた時点で逆らえない事実にダメ押しをされるようで、かなりきつい。
その人生への態度が "どうせいつか死ぬからって毎日死に装束を着ているかのようだ" とクラスメイトに評される場面がさらっと入るのがすごい。二子玉川の死装束感、というふうに自分都合で変換すると、こんなにしっくりくるものはない。

 


逢沢りくの母親はわたしだ、とも思った。二度目は母親の視点で読んだ。
もしわたしが20代後半~30代前半で子どもをもっていたらと考えると、この母親の生きてきた社会背景はわたしとまったく同じだ。子どもができたからキャリアを捨てたと、そんな言いかたをしていたかもしれない別の人生がありありとそこにあった。
わたしと同世代で子どもを持っていない女性のなかには「自分は絶対に毒親になるだろうから」という思いでそうしている人が、実は少なくないのではないか。もちろんそんな思考はそのまま世に出すことはできない。でも、このマンガには描かれてる。これはわたしに限ったことだと限定して言うけれど、わたしはこの母親のようになっていただろうという自覚が強くある。
「うーん ていうか 私今すごい必死でいろんな事やってて、ある意味じゃ充実してるんだよね」というセリフの出る場面で、はっきりとそう思った。
排他的なふるまいによって起こる周囲の反応で自分の存在を確認しようとするなんて、自分の子どもに対しては絶対にやってはいけないこと。だけど、自分はそういうことをしてしまうのではないかという恐怖を、この母親は事実として見せる。ホラーだ。ホラーだけど、ものすごくよくある現実じゃないかとも思う。「あなたのために」「ママのために」の応酬。これはホラーではなくて、実はすごくありふれたことなのではないかと思う。家庭というものがブラックボックスだから見えてこないだけで、なんならこちらがデフォルトということはないだろうか。

 


三度目は衣食住のモチーフやセリフの伏線への答え合わせをしながら、大阪の親戚世界のすごさを掘り下げながら読んだ。子どもと動物を使われたらこりゃ無理だぜというところを抜きにするために、メインの大阪夫婦のスタンスに注目して読んだ。
どの角度から見ても、この家は矛盾を受け入れる準備が整いきっている。「せやな」の三文字の包容力ったら!
除菌された環境で暮らしてきたために病気の家族を見て怖がる逢沢りくを、残酷と見るか否かという場面でさらりと流すおばさん。深読みすることにエネルギーを注がず、ただ質問に答えるああいうコミュニケーションは、これからわたしが目指したい姿でもあった。おばさんは、乙女時代のミニスカートを捨てていない。断捨離なんて言葉はきっと知らない。
おばさんとおじさんの居る場面では、画面が文字でいっぱいになる。今という時間を、そこにいる人みんなで分け合って食べる前提の家。心細くなっている暇がまったくない場所に放り込まれたら、きっとわたしも崩壊する。そしてわたしは関西で、毎年そういう経験をつまみ食いしている。なんて贅沢なことだろう。

 


わたしが関西にいるとのびのびできるのは、この人にもいろいろあるのだろうとお互いわかった上で、いま示されたものをまずはおもしろがろうとするコミュニケーションがあたたかいから。そういう反応の土壌の力というのが、確実にある。わたしにとってはアウェーのはずなのに、生まれ育った新潟県へ行くときよりも値踏みされている感じがしないのはどうしてだろうとずっと不思議だったのだけど、この本を読んだら理由がわかった。
そしてその関西の感じを、いまは東京でも少し感じることができはじめている。わたしが少し文章の書き方を変えてから、ここ数年会っている人を見て、そうなってきていると感じる。わたしが文章の書き方を変えることができたのは「そこまで読み取ってくれていたの」と思わせてくれた、わたしに話をしてくれた関西の人たちの力が大きい。
このマンガは、関西に住みながら関西になじめていないと思う人にも、なにかその理由を示されるところが確実にあるのではないかと思う。推測だけど、そう思う。

 


インドで熱中症になってから読書がつらくて雑誌を読むようになったのだけど、今月買った「Premium」という雑誌に気になる記述があって、その発言主が、「逢沢りく」の作者のほしよりこさんだった。わたしはマンガをほとんど読まないのだけど、軽い気持ちで手を出したらとんでもない目にあった。

わたしは9年前、まさに逢沢りくのような考えかたをしていた。

いま思うと、わたしはかなりやばい状態だった。「クリーン」や「スマート」を是とする環境で、東京で、ずいぶん追い込まれている。これは自由が丘にあるヨガスタジオの更衣室での出来事がきっかけで書いたものだ。よく覚えている。
「逢沢りく」を読んだことで、いろんな人からこの数年間で自分を変えてもらえたことに気がついた。