うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

戦争と一人の女  坂口安吾 著

ざっくりとした行動自粛とか、オリンピックって海外から人がそもそも移動できないから無理じゃないとほとんどの人が思っていても確定しないまま日が迫っていく感じとか、2020年のいま~2021年の夏までの時間の流れって、きっと50年後の人々から見て「あの時代の人がすべてぼんやりしていたわけではなかっただろうに、頭のいい人もたくさんいただろうに…」と訝しがられることなんじゃないか。
ここ数か月、友人と話すとたびたびこういう話になる。戦争中の人々の生活の中にある漠然とした判断疲れって、きっとこういう感じだったのだろうと、そんな流れから本の感想をよく話す。
わたしが太宰治の「十二月八日」を読んだとこのブログに書いたら、友人がそれならこれも少し似ていると教えてくれて、この物語を読みました。「白痴」の少し軽いバージョンという感じもしながら、それとはまた違う甘い雰囲気。

「日本はどうなるのでせう」
「そんなこと、俺に分るものかね」
「どうなつても構はないわね。どうせ焼け野だもの。おいしい紅茶、いかが」
「欲しいね」
 女は紅茶をつくつて持つてきた。

会話の軽快なリズムの中にある諦念が、いまの社会生活の感覚と重なる。
この物語に出てくる「女」の言うことは、いま政府がそれを「ないもの」としようとしている感情。それを口にする男女のキャラクターと状況の設定が、ものすごくありそうなのがいい。ありそうだし、当時も実際あっただろうな。この縮小版があちこちに。

じわじわ定着している投げやりさ、なのにちゃっかり発動してしまう火事場の馬鹿力、ポーズをとり続けるのも疲れるものよという正直さ。戦時中にもあたりまえに存在していたはずのカラフルなマインドの実況中継。


坂口安吾の小説を読むと、ナマナマしくいきたいものだ。いくら誠実でも生き物として斜に構えてダサくなるのはいやだー! という感情が起こる。ものすごい変化球で生きる根本の力を刺激される。この刺激はちょっとクセになる。

 

戦争と一人の女

戦争と一人の女

 

<追記>続編も読みました。