今年は夏に3か月くらいかけて島崎藤村の「新生」を読んで、その後もしばらく考えをまとめられず、「新生」について他の作家が触れている3つの本を読みました。
ひとつめは「太鼓たたいて笛ふいて」(井上ひさし著)、ふたつめは「或阿呆の一生」(芥川龍之介著)。それぞれにそれぞれのツッコミがあったのだけど、わたしはこの坂口安吾の「デカダン文学論」がいちばん好きです。
こんなにも読書中に重く感じてきたヘドロをどぶさらいしてくれる文章があるなんて。いまこの人に売り込みされたら壺でもパワーストーンでも水でも買うわ。合宿だってなんだってどこでもついてくわー、もう。
この「デカダン文学論」では島崎藤村と夏目漱石について書かれているのですが、わたしが乱暴に要約すると「男女の最も生物的かつ人間的な情を書かずに周囲をぐるぐる繊細に書いて、臆病な文豪らめ。どーんとぶつかって、愛せばいいのだよ! 生きればいいのだよ!」みたいなことを主張されています。
このエモさはいい。すごくいい!
彼がどうして姪といふ肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかといふと、彼みたいに心にもない取澄し方をしてゐると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かつたのだと思ふ。
あの種のねじれた感情には最大限の慎重さで、同性同士の場合はことさら慎重にケアするもの…、、、じゃないの?! さくっと書いちゃってる。
彼は姪と関係してその処理に苦しむことよりも、ポーズを破つて知らない女を口説く方がもつと出来にくかつたのだ。それほども彼はポーズに憑かれてをり、彼は外形的に如何にも新らしい道徳を探しもとめてゐるやうでゐながら、芸者を芸者とよばないで何だか妙な言ひ方で呼んでゐるといふだけの、全く外形的な、内実ではより多くの例の「健全なる」道徳に咒縛せられて、自我の本性をポーズの奥に突きとめようとする欲求の片鱗すらも感じてはゐない。真実愛する女をなぜ口説くことが出来ないのか。
2020年にナインティナインの人が不景気になると美人を買いやすくなるという趣旨の発言をしたときに炎上したけれど、そのときの指摘をとっくに済ませている。人権とか尊重とかそういう話じゃなくってさ、って話をちゃんとしている。人間だ。
こんなふうにも書いています。
作家と作品に距離があるといふことは、その作家が処世的に如何ほど糞マジメで謹厳誠実であつても、根柢的に魂の不誠実を意味してゐる。
この「魂」の使いかた、好き! 壺もパワーストーンも水も、この棚にあるもの全部出してちょうだい。(リボ払いにしいといてください。←ヒソヒソ)
そしてこの流れから、流れ弾が夏目漱石へ向かいます。この流れが最高で、すごくおもしろい。流れ弾が流れるにもほどがある。
夏目漱石といふ人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、かういふ家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はたゞ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れてゐた。つまり彼は人間を忘れてゐたのである。
ここを読み始めたときは、おっとこういう角度から来るのね……とドキドキしました。
その先もデッド・ボールぎりぎりの、かなり心臓に近いところへ投げ込んでくる。
より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺といふ不誠実なものを誠意あるものと思ひ、離婚といふ誠意ある行為を不誠実と思ひ、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかつた。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリ/\のところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そつちに悟りがないといふので、物それ自体の方も諦めるのである。かういふ馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考へて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来かういふフザけたもので、漱石はたゞその中で衒学的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみたゞけで、自我の誠実な追求はなかつた。
「こころ」のKと先生、「門」の宗助へのツッコミからはじまって、日本一般の生活態度まで延びていく。でも、そうなんですよね…。夏目漱石が売れ続けてしまうところに絶望がある。漱石先生わかっとるわー、とシビれている時点でどこか諦めている。「虞美人草」で藤尾をああするしかなかった夏目漱石の発想の限界についても書いてほしかったけど、それは求めすぎってものか。
終盤は恋愛マッチョっぷりがすごくて、なんだかセックス教団が立ち上がりそう(笑)。
失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力はすくない。日本の家庭といふものは、魂を昏酔させる不健康な寝床で、純潔と不変といふ意外千万な大看板をかゝげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思つてゐる。家庭が娼婦の世界によつて簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さに就て、人間性に根ざした究明が又文学の変らざる問題の一つが常にこのことに向つて行はれる必要があつた筈だと私は思ふ。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。だましあひ、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
オチがエモくてかっこいいい。なんだこれ!
わたしは「新生」という小説を読んだときに、この時代も今も臆病者のこじれかたの根っこは変わっていない、そこに地獄みを感じるんだよな…、と思っていたのだけど、坂口安吾が一人でぜんぶ解説してくれました。
ちょっとだけOSHO(ラジニーシ)に似た勢いも感じて、娼婦のくだりなどはスワミ・ヴィヴェーカーナンダのようでもある。なにこの魅力。これは魂の魅力?
そんなこんなでいまはカルト教団に入信する人のコントロールド・マインドを疑似体験したかのような気分。あれは自尊心を削り取られ切ったあとの一発逆転欲求だわ。だってANGO尊師はすべてをお見通しなんだもの!
(ものの喩えですよ)