うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

誘導してこない時代の本を読んで自分の思考の性向を見る

さんざん誘導を試みたあとで「もちろんこれは、絶対にこうすべきということではありません」と追記する、そういう文章に疲れる瞬間が増えてきました。


タイトルは強気な言い切り、あるいは壮大な思わせぶり。中身にはリスクヘッジがいっぱい。そして感謝ラッピングで関係者の名前を羅列して集団自衛。すぐに炎上する社会だからそうなる理由もわかるけれど、そうなればなるほど古い本がありがたく感じます。
戦争時代の坂口安吾三島由紀夫林芙美子の本をいま読みたくなるのは、覚悟の太さが違うものに触れる安心感があるから。バッチコーイな感じがいい。この時代にこの人はこう考えた、というのを知ることができる。


わたしが今したい読書は、壁を使った投球&キャッチング練習のようなもの。よく少年が塀や橋の下の壁面を使ってやっているあれです。
あれをやるとき、壁はコンクリートがベストで、角度は完璧な垂直。表面は完全に平らだと易しすぎるから、ときどきイレギュラーな跳ね返りもあるとうれしい。絵や的があるとそこを狙ってしまうから無地がいい。そんな親切はいらない。


いま本屋で見かける新しい本は、壁にだいたい的(まと)が描いてあって、自己啓発書や新書は読む前からどんどん周辺情報で説明してくる。実際読めばそれなりに筋力はつくのだけど、イレギュラーに対応する感覚が養われるときの充実感がない。読後になんとも言えない虚しさを感じることがあります。
誘導ジャンキー向けの仕様がデフォルト化しつつある最近の本は、電子のほうがそれが少なくていい。そのくらいに思っています。


わたしは誰もがいちばん興味を持っているのは「自分自身」だと思っているので、ためになるとか役立つなどの表現にナマナマしさを感じ、"変わる" という文字列を見ると、ずいぶん大きく出たねと感じます。


コンクリートの無地の壁になってくれるような母国語で書かれた本を読み、ひたすら意識を投げ込んで跳ね返った球をキャッチする。その球の軌道を追う。だんだん投げ込みかたが安定してきた頃には自分も安定している。いまわたしはこの繰り返しで、なんとか自己を保っています。
自分の意識の軌道が読めてコントロールができる力をつけるには、親切に整えられた設定じゃないほうがいい。これはわたしの経験則。

 
今日のタイトルに使った「性向」は日本語で考えると「傾向」で片付けたくなるところを、サンスクリットのヴァーサナーにより近づけたくて「性向」を選びました。潜在記憶と訳す方向もあるのだけど、スピリチュアル色がありそうに見える言葉を使うのはわたしがなるべく避けたい表現方法のひとつなので、「性向」としました。
こういうとき、表意文字文化のデメリットを少し感じます。