同じ作家の小説とエッセイで、魅力的な共通点があると感じた本の感想を書きます。
白痴
人情はただの好都合では動かない。礼儀やタテマエでも動かない。人情を行使するとはどういうことかを考えるのによい小説でした。
わざとそれらしい言葉を使うなら、この主人公を突き動かしていたのはカルマ・ヨーガの精神。だってそこに人間がいるんだものと、目の前の人を助ける。
目の前の人間には「心」がある。でも「頭」は狂っているということにされている。そういうことにされている。この物語の半径は小さく、困ったときはお互い様なんて言葉もないまま関係が回っています。
この物語は生死の危機にさらされる戦争の話であり人間愛の話。こんなにも理性というものを美しいと感じさせてくれる物語にこれまで出会ったことがなく、戸惑いました。読後に放心しました。これまでの思考の範囲を大幅に超えていて、これまでの経験に大々的な招集をかけても全く追いつけない。過去のどんな記憶ともマッチングが起こらない。
この読書体験は、すごくいい時間でした。まったくモヤモヤのない逡巡。生きているって、美しいってことなんだなぁという気持ちになりました。
わたしは状況描写のなかにさりげなくある、この一行に完全にやられました。
今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった。
ずるいよ。どんだけジゴロなのよ。これはずるいよ。だめよ。これは反則よ。だめだってー。もー。(読めばわかります)
そして、同じ男があとでこうなる。
微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。
うん、これもほんとだね。ほんとうだよ。
言葉なんてエネルギーのアップダウンに装飾を施して都合をつけているだけなんだ。終盤ではそんなふうに思えてくる。身体のエネルギーに勝るものなんてないんだ、という気持ちになる瞬間のほうが、あれこれ物事を考えているときの何倍もしあわせ。
言葉にしたら一気に陳腐になるようなことを物語に乗せる。もしもお釈迦様がハードボイルドな死生観の語り手だったら…、みたいな話法で来る。なんなんだこの話は!
精神病覚え書
自身の入院体験を書いたエッセイのような文章です。坂口安吾はこんなに分析家なのに、どうしてチャーミングに見えるのだろう…。その理由がうかがい知れるような記述がありました。
僕自身発病して入院するまで、フロイドの方法をかなり高く評価していた。然し、入院して後は、突如として、フロイドの方法はダメだという唐突な確信をいだいた。
大体、分裂病が潜在意識によるかどうかは疑わしいが、僕の場合は、鬱病であり、それにアドルム(催眠薬)中毒の加ったものである。分裂病に比べれば、鬱病には、まだしも、潜在意識の作用はたしかにある。何かゞ抑圧されていることが、病状を悪化させる一つの理由となっていることは確かである。
(中略)
持続睡眠療法も、アドルム中毒の場合もそうであるが、半覚醒時に、甚しくエロになった。全ての患者が、そうか、どうか、僕は知らない。然し、概してそうなるのが自然だろうと思われるのは、何人も性慾については抑圧しつゝあるものであり、又、催眠薬が、これらの抑圧を解放するというよりも、性慾の神経に何らかの刺戟を及ぼすものだと思われる。フロイド的な抑圧の解放を意味するものではなく、薬物に、それらの悪作用が附随しているだけのことで、なければ、ない方がよろしいであろう。この悪作用を伴わない催眠薬が発明出来れば、大変よろしいように僕は思った。
自分の身体を使って経験・分析したことを書いている。経験したうえで軽快に「あれ副作用だと思うんだよねー。あの副作用がなくなればいいのにね」と語っている感じが、なんかいいのです。ぎゅん!(←キュンの上位形)
自ら入院し、ここは重症の人たちがいない病院だからね~といくつかのパターンを分析してレポートする。そしてそういう精神の状態を生み出す社会のクレイジーさを指摘する。マスコミの問題はいまも変わっていなくて、そりゃ病むよねと思えてくる。
読みながら「ところであなた患者でしょ!」と何十回もツッコミを入れたくなるおもしろい文章でした。こういう感覚があるから「白痴」のような小説が書けるんだな。ぎゅん!