今年から読み始めてすっかり夢中になっている向田邦子エッセイ。この本にも名作「手袋をさがす」が収録されています。
「手袋をさがす」はやっと少し冷静に読めるようになってきたというか、三度目にしてやっと、人生の転機となった20代終わり頃の著者の転職話として読めました。
転機というのはただ風向きや方向性が変わるだけじゃなくて、自分のなかで見ないようにしてきた弱点を見ることにするかどうかの覚悟のきっかけでもあるんですね。これまで見ないようにしていたことを見て、見て、掘り下げて掘り下げて、まだ掘り下げる。
それをこんなふうに文章にまとめられるなんて、外から見れば明らかに天才。なのに、天才の話ではないものとして読まされる。何度読んでもすごい。
このほか「言いわけ」「言葉は怖い」などいくつも心に残るエッセイがあったのですが、雑誌「ミセス」に1981年に掲載された「アマゾン」という旅行記は冒頭から驚く内容です。文章は出だしが命だと文章を書く人の間では言われたりするらしいのだけど、ここまでの出だしは見たことがありません。
これはもう河ではない。海だ。アマゾン河の岸辺に立ってそう思った。天に至る水である。
向こう岸はかすんで見えない。岸といっても中州で、それが種子島の大きさだという。航空写真も地図もない。アマゾン河は季節で地図が変るから無意味だという。
アマゾン河は濃いおみおつけ色である。仙台味噌の色である。そこへ、八丁味噌のリオ・ネグロとよばれる黒い川が流れ込む。人はアモーレ(愛)があれば、一夜で混血するが、ふたつの河は、たがいにゆずらずまじらず、数十キロにわたって、河の中央に二色の帯をつくってせめぎ合う。結局は、仙台味噌のアマゾン河に合流するわけだが、ボートで二色の流れのまん中に身を置くと、自然の不思議に息をのむ。
このあとカラフルなブラジル旅行記に少しずつ文章が移っていって、最後のあたりでは出だしが二種の味噌から始まっていたことを読み手はすっかり忘れてる。このエッセイはほんの数ページですごく短い。驚くような速さで昭和の茶の間からブラジルへ連れて行かれる。「アマゾン河は濃いおみおつけ」「八丁味噌のリオ・ネグロ」という文字列のインパクトでいっきにワープする。
昭和の木造家屋の一部屋で、もんぺを履いたおばあさん(樹木希林)に「ジュリーィィィィ♪」と(身をよじりながら)言わせるドラマの脚本を書いた人の旅行記はこのようにすごい。
このドラマをリアルタイムで知らない人も(実際わたしもリアルタイムでは知らない)、あのインパクトとこの旅行記はおもしろさの強度がそっくりであることに気づくはず。自分で選べるという意味の自由って、きっとこういうことなんだ。自由と知恵はワンセット。
勝手に自分で自分を規制して偽善者になった気分でまた消耗して…、なんてことを繰り返していると、こういう自由のあり方に目を覚まされる。同い年の友人の本棚写真を見たことをきっかけにハマり始めた向田邦子エッセイを、いまわたしはまるでウィルスの媒介者のように同世代の友人にすすめまくっています。
大丈夫、これを読めば大丈夫だからと、そんな気持ちで最近よく話題にしています。
新装版はKindleでも読めます