うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

母影(おもかげ) 尾崎世界観 著

自分にはどうやら物質的な欲が少ないみたいだ、ということに気づくには時間がかかります。欲しいかどうかはさておき、いつか欲しくなった時のために得られるようにしておくに越したことはないと考える人が多いのでね。
ましてや子どもとなれば、物質的な欲というものがわからなかったりします。精神的な欲と区別がつかない。モノが欲しかったんじゃなくて気にして欲しかった。わたしもこの物語の主人公のように、そこでよく混乱していたな。今もそうじゃないかと思うことがたまにあります。

 

 

少し、わたしが子どもの頃の話をします。
東京ディズニーランド」の設立と「おしん」の放映が同じ1983年。まだ小学生で自分の価値観など見当もつかない頃に、わたしは両極端なインプットを同時に受けながら暮らしていました。自分と社会の関係を理解したいのだけど、自分がどの位置にいるのかがわからない。そんな社会のなかで、キョロキョロしながら育ちました。

なのでわたしはこの主人公の気持ちがなんだかよくわかります。何かを麻痺させなければ、疑問を抱く気持ちを捨てなければ、この先も社会人の仲間入りはきっとむずかしい。とにかくそれだけが漠然とわかっている、推測と想像ばかりの毎日。

 

そしてここからは大人になってからのわたしの考えですが、子どもの頃に自分を麻痺させるために捨ててきた「何か」は、実はいちばん大切なもの。どこかで回収して自分を育て直さないと、甘いものを食べた後にしょっぱいものを食べたくなるループのような人生になりそう。それを食い止めたい。
欲と向上心は密接で、欲がないと向上心を掴みにくい。だからときどき、欲のなさを罪悪感と混同してしまいます。

 

 

世間で最初に断捨離ブームが起きたのは、いつのことだったかな。物質的な欲をちゃっかり満たしておきながら知足と言いだす人に、わたしは心の中で、こんな質問をしたくなることがあります。
「そもそも欲が少ないことによって社会的に漠然とした罪悪感を抱えることになった人には、どんな文脈で知足を説きますか?」

この素朴な疑問を押し殺すときの葛藤は、アジアで物乞いの子どもや詐欺を働こうとする大人のエネルギーに接したたときに感じる葛藤と似ています。

 

 

そしてこのたび、その素朴な疑問の種を割られてしまいました。これは不意打ちで驚きました。固い殻に包んで守ってきたのに、ふかふかのやわらかい土に包まれて、思わぬ角度から連続的かつ安定的に水が流れ込んできて、思わず発芽してしまいました。
しかも、この種はなんともかわいらしい花を咲かせます。
この本を読みながら、そんな不思議な体験をしました。


この物語にはたくさんの小さな罪悪感が書かれています。子どもが洋服屋で試着室に入るほんの数秒の描写に胸を掴まれました。

黒いカーテンの奥に小さな部屋があって、クツをぬいで中へあがった。灰色のカーペットをふむたびに、足のうらがかゆくなった。カーテンの下から、とつぜんだれかの手が入ってきた。その手はこっち向きだった私のクツをつかんで、きれいにそろえてからあっち向きにした。それはいっしゅんのことで、なんだか私がした悪いことをせめるようだった。

カーテンの内側の世界でも安心できない。そのきっかけは抜き打ちでやってきます。

 


物質的なようで実は精神的に大きく満たされている、そういう光の瞬間も見落としません。主人公がお母さんに髪の毛を結んでもらう場面で、涙が止まらなくなりました。

 テレビを消して着がえをしたあと、お母さんが髪をむすんでくれた。お母さんの指の力がヘアゴムから伝わってきて頭がチクチクした。糸電話みたいに、お母さんの指と私の髪が通じ合ってた。私の髪がヘアゴムのわっかをくぐるたびに、お母さんの指はすばやく動いた。私はその力に、右に左にふりまわされた。それがおもしろくてちょっと笑った。いつもとはちがう、おでかけ用の髪で家を出た。風がふくと首がスースーするし、太陽がおでこにあたってまぶしかった。

わたしにとっても、しあわせというのはこういう瞬間のことでした。

 


この小説は少しサスペンスっぽくもあって、終盤はまるで『八日目の蝉』のようでハラハラします。
主人公のお母さんの仕事が変化してくるあたりから、先が気になってしょうがない。どうか、どうかこれ以上状況がエスカレートしませんようにと祈る気持ちが止まらない。

 

 

   ニーズがエスカレートしませんように。

 

 

ニーズという言葉はそれが示す範囲を広げやすく、「あれ」や「ナニ」のような指示語と同じように使えてしまう、ずるいマーケティング用語です。「これってお願いできますか?」という中に、ちょっとしたことからとんでもない図々しさまで暴力的に包括する。受け取った側が「できる・できない」の間で魂を削ることで成り立つ会話のきっかけを作るもの。
大坂なおみさんが記者会見に対応したくない理由は、きっとこの小説で描かれる力関係と似たことじゃないかな。ニュースを見たときに思ったことが蘇りました。それは、ナマナマしい「ニーズ」を受ける側になったことのある人にしかわからないこと。

 


選挙ポスターになるほど模範的な笑顔ができる人のなかに、これを受け止め理解する人がどのくらいいるだろう。ほとんどの人が理解できるはず。だって受け取る側にいるんだもの。というのはあくまで仮説であり、理想。

 

この小説は、弱者に「いつもお世話になっていますから」と言わせる支配関係を子どもがじっと観察している物語。見たくない現実ばかり書かれているけれど、「いま自分はここに居ないほうがいいのだろうな」と推測と想像ばかりの子ども時代を過ごした人には、叫びだしたくなるような描写の連続です。しんどいのだけど、やさしい。

なつかしい気持ちが蘇りました。