友人から本も映画もすごく良かったよ、と教えてもらった映画『星の子』を観ました。
わたしは映画を先に観たあとに原作小説を読みました。読まずにはいられないパターンでした。
観はじめたら主人公が秦野駅のあたりを歩いていて、弘法山へ行ったときに見た景色だったので、急に身近な物語に感じられました。
映画の感想
親が新興宗教に入信した現状に対して子どもが6割か7割くらい納得している状況って、きっとこういう感じだ、と思いながら観ました。
主人公は姉妹の妹のほう。信仰に傾倒してからの家の様子は姉にとっては機能不全家族だけれど、妹にとってはデフォルト。
家庭内で起こる「水」に まつわる行動について、両親から裏切り者を見る目を向けられた瞬間のお姉ちゃんの気持ちを思うとしんどくて、その感覚を疑似体験できたことがとても貴重でした。このシーンのカメラの位置が、姉の気持ちを感じるように設定されていました。
中学生の女の子が外の世界との接点で葛藤する様子を「コーヒー」と「リップクリーム」で要約しているところが意味深く、原作小説にはない「リップクリームを友人からもらう主人公」と「主人公がリップクリーム使う場面を横目で見る友人」の表情がすごくいい。わたしはこの二つのシーンが大好きです。
容器だけが赤い、中身には色のついていない、たぶんほんのり良い香りがするだけのリップクリーム。こんなちょっとしたものが、主人公にとっては喉から手が出るほど欲しいものだった。その気持ちが見えた瞬間。ここはほんとうに、芦田愛菜さんの名演技。
この物語で描かれる、質素な生活で仙人のようになっていく親夫婦に対して起こる複雑な感情は、わたしは消化するのにまだ時間がかかりそうです。
同じ宗教団体に入っていても、物質的に豊かな生活のまま、カラッと明るく信仰と教団イベントへの参加を楽しく両立させている子もいて、清貧はこの信仰とイコールではないのに、主人公の両親は貧しく暮らすほうへ向かって強めに舵を切っています。清貧のようなものを盾にして守りたかった「心」の存在から目を背けているように感じられます。
「自分の身体が弱かったせいで両親が入信した」というセルフ呪縛の縄を、欲も元気もある中学生の子が自分でコントロールし続け苦しんでいることから目をそらすこと、見たいものしか見ない・聞きたい話にしか反応しない夫婦の目の動かしかた(特にお父さん役!)の演技が絶妙で、そこに既視感がありすぎて。
学校があって、義務教育の場があってよかった。この映画の世界では、それがほんとうに大きい。
自分が中学生の頃に、騎馬戦に出ない子に対してみんながその話題を避けていた、あの暗黙のルールを思い出しました。
原作には出てこない保健の先生の接しかたは「ウォッチしつつものびのびさせる」のお手本に見えて、見習いたいと思いました。
日本の信仰の自由って、信教の自由って、まさにこういう感じ。
「まさに」の拾い出しかたにわざとらしさがなくて、モヤモヤすることに意義がある映画でした。
小説の感想
映画を観てから読んだので、小説で理解が補完されたところもありつつ、小説のほうが怖いエピソードもありました。
主人公は映画で観たよりも食に興味があって、父母は一日一食しか食べていなくて、TPOをわきまえずに独自のマントラを唱えてしまうほどに、ガチ。主人公の食欲が映画よりも具体的に描かれていました。
そしてなにより、学校の子たちが心の良さが、小説だとさらに沁みます。やさしいのはナベちゃん・新村くん・釜本さんだけじゃなかった。
小説を読んでからあらためて映画を観ると、お姉ちゃんが発したセリフ「わけわかんなくなることってあるんだねぇ」というあの言いかたが、とにかくすべてをあらわしているように思います。
すべてを肯定してしまえる唯一の材料として「愛」という一文字が存在する。
宗教の巧妙な面とやさしい面の、やさしい面を見ることに決めている妹本人がそれを口にする場面にも、姉の意思との対比がありました。
この小説のすごくいいところは、動かせない現実とやさしさの描きかたが直接的ではないところ。止まらない涙を釜本さんがホッチキスで止めてくれた14章の終わりかたなんて、最高です。
そこには確実にこれから成熟していくやさしい繋がりがあって、それを中学生の時点で得ることができているのが、この主人公の持つ能力の最たるところ。この子なら大丈夫なんじゃないかと思わせる。
大丈夫ってなんだという話ではあるのだけど。
すごい物語に触れてしまった。