うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

恥ずかしさが虚栄心と自尊心の重さを教えてくれる

先日、SNSで自分が乗り越えたことを報告している知人がいました。
中年にもなれば、いろいろあるもの。ウンウン、あるある。と思いつつリアクションができませんでした。立ち直りの話は言葉にできるようになるのに時間がかかるものだし、そもそも立ち直りというのが概念的で、いまは少し話せるようになったというくらいのもの。

自分も似たような経験をしていれば、そうそう気軽にリアクションできるものでもありません。でもいまの時代は、そういうこともSNSで報告されたりしますね。こういう時、いいねってものでもないだろうし……、などとわたしは思ったりします。

 


恥の感情というのはおそろしいもので、一瞬にしてすべてを帳消しにしたい気持ちを爆発させるエネルギーを持っています。
わたしは「潔さ」ってマジックワードだよな……と思っているので、消せたらいいのにと思うほど強い気持ちが起こったときは、それを虚栄心の重みとして捉え、重量を適正化させるしかない。年々、そういうふうに考えるようになりました。
この「ものすごいエネルギー」を分解して別の燃料として再生するのだという意志を持たないと、自分を取り囲む人がマイナスの話を聞きたくて寄りつく人ばかりになったり、なにか一発逆転を期待させる案件に勧誘されたりします。

 


ほどよい虚栄心の重量で暮らすことは、適正体重で暮らすことと似ています。
恥の感情でパニックになる時、
わたしは

 

 

  どこでどう増えた? この虚栄心

 

 

と、自分を振り返るようにしています。心の脂肪を測る体重計に乗る感じ。
生きていれば摩擦があるし失敗もするし、回復にはそれなりに時間を要するもの。

自分の嫌な部分に向き合う経験をした親しい人が、なにげない会話でふと口にする言葉のなかにやさしさを感じる。そういうことも増えていきます。

仲間を見つけたと思った瞬間にグイッと両手首を掴んでくるような、そういう幼稚なやさしさを見せる人はもうわたしくらいの年齢になるとかなり少なくなってきます。それこそ、なにかにサインさせられたり売りつけられたりする展開だったりしてね。

虚栄心も自尊心も、自分のなかで味方になったり敵になったりします。

増やしすぎず減らしすぎず、武装しすぎず脱ぎすぎず、でいきましょう。